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丹羽長秀の死因は呪詛説 熱田神宮の祟りも受けてましたし

最近すごく思うことがある

当然たいしたことではないですし、思い切り矛盾しまくりの説なので

鋭い突込みはなしで!!(リンダのように困っちゃう)

 

天然の要害と言うか、風水的に良すぎる場所と言うのは

実は人が住んだり大きな建物を建ててはいけないんじゃないか?説なのです

 

風水なんかは穴といういわゆる地上の吉兆な場所を探す技術じゃないですか

そういう場所に住むととても良い運云々に恵まれる~的な

 

岐阜城や大阪城と言うお城がありまして

信長なんかが居城にしたくらいだから

当然良い場所ですしそれ以上にいわゆる天然の要害

 

難攻不落のお城として、戦国史上最も落とすのが難しいお城として

名高い名城じゃないですか

ですがこの二つとも3度も落城してる

 

私的には中々興味深いのです

岐阜城は金華山にあって当然金華山には龍が住んでる(はず)

ちなみに魔王信長が第六天魔王と呼ばれるお方と

一番最最初にコンタクトがとれたのが岐阜城なんだと私は感じます

その方とお酒を酌み交わしながら交流してくうちに、

天下布武という発想になっていったんじゃないかと妄想なのです

 

大阪城なんか龍だか何だ書いたかは知りませんが

多分なにかしらの霊的な存在と言うものが元からいたんだと思うのです

(ふと思ったのが実は鳳凰なんじゃないか??)

 

あくまでも妄想なのですがやはりその手の存在が住む場所に

大きな建物たててすんじゃうのはよろしくないかも

お屋敷くらいのレベルなら良いのかもですがお城くらいの規模になると

 

その手の存在の住処というよりもお城がメインになっちゃう気がするのです

と言いながらも他の落城もしないで繁栄してるお城もたくさんあるので

矛盾だらけですが

ははは

 

逆に江戸城のように天然の良い場所よりは

人工的に良き場所にしちゃったほうが案外良いのかもしれないな~

と思ったりもです

 

さて織田信長の家臣に丹羽長秀と言う方がいまして

席次でいえば柴田さんに次ぐNO2

秀吉より上です

私の中では以前からこの方って呪術的にはいまいちなんじゃないかと

睨んでいたのです

 

呪術=呪詛と言うだけではなく土地を鎮めたり建物なんかを

守っていただいたり云々と言うそちらも含めて

 

清正さんや藤堂高虎さんが得意だったいわゆる

結界的な技術を持ってなかったんじゃないか?と睨んでるのです

 

天下の名城安土城築城の最高責任者であり、

秀吉の大阪城と言う難攻不落の名城の設計も多分この方がだったと

思うのです

何故かって大阪城の着工が1583年ですから

本能寺で信長がなくなったのが82年

 

そんな早く着工なんて無理じゃないっすか

縄張りや設計図云々も本能寺の時点で秀吉が作ってるはずがないですから

信長のプランをパクった説なのです

(当然そんな資料を天下人秀吉が残すはずはないので、資料絶対主義の学会ではイマイチの説ですが、大阪城=信長説は根強くある)

 

ということでやはり長秀がかなり関わってたと思うのです

ちなみに安土城、大阪城という天下の2大名城って

落城してるじゃないですか

 

ついでに小牧城や坂本城も丹羽長秀が築いてますがことごとく落城

前者は家康と秀吉が唯一闘った小牧長久手の戦いで

 

後者は廃城

ちなみに三成に過ぎたるもの~で有名な三成君の居城佐和山城

こちら長秀君が治めてた時代があり私的にはその時代に

多分縄張りなんか強力にしたんじゃないか?と睨んでますが

 

こちらも関ヶ原で落城

本能寺の変、大坂の陣、小牧長久手の戦い、

関ヶ原の戦いと言う歴史の分岐点になる戦いですべて主役となり落城してしまうのはやはり私的には何かしらの何かを感じるのです

 

ちなみにこの方、熱田神宮の神職をしてた武将の名刀を手に入れてから

眼病で悩み熱田さんに奉納したら治ったり

中々霊的なものに悩まされてたと感じます

 

死因がこちら 長いですがWIKIからです

天正13年(1585年)4月16日、積寸白(寄生虫病)のために死去した[9]享年51。跡目は嫡男の長重が継いだ。

『秀吉譜』によれば、長秀は平静「積聚」に苦しんでおり、苦痛に勝てず自刃した。火葬の後、灰の中に未だ焦げ尽くさない積聚が出てきた。

拳ぐらいの大きさで、形は石亀のよう、くちばしは尖って曲がっていて鳥のようで、刀の痕が背にあった。

 

秀吉が見て言うには、「これは奇な物だ。医家にあるべき物だろう」と、

竹田法印に賜ったという。

 

後年、これを読んだ平戸藩主・松浦静山は、この物を見たいと思っていると、寛政6年(1793年)初春、当代の竹田法印の門人で松浦邸に出入りしていた者を通じて、借りることができた。

 

すると、内箱の銘は『秀吉譜』と相違があり、それによれば久しく腹中の病「積虫」を患っていた長秀は、「なんで積虫のために殺されようか」と、短刀を腹に指し、虫を得て死去した。

 

しかし、その虫は死んでおらず、形はすっぽんに似て歩いた。秀吉が侍医に命じて薬を投じたが、日を経てもなお死ななかった。

 

竹田法印定加に命じて方法を考えさせ、法印がひと匙の薬を与えると、ようやく死んだ。秀吉が功を賞してその虫を賜り、代々伝える家宝となったとあった。

 

外箱の銘には、後の世にそれが失われることを恐れ、高祖父竹田法印定堅がその形を模した物を拵えて共に今あると書かれていた(内箱・外箱の銘は、天明7年(1787年)に竹田公豊が書いたものであった)。

 

しかし、静山が借りたときには、本物は別の箱に収められて密封されていたため持って来なかったというので、年月を経て朽ちて壊れてしまい、人に見せることができなくなってしまったのだろうと静山は推測し、模型の模写を遺している[10]

 

これらによると、石亀に似て鳥のような嘴をもった怪物というのは、寸白の虫(ただし真田虫ではなく蛔虫)と見るのが妥当である[11]。証拠の品を家蔵する竹田譜の記事に信憑性が認められるからである。

割腹して二日後に死亡したことから判断して、いわゆる切腹ではなかった[11]

 

こりゃあどう考えても呪詛なんじゃないか??と思う私なのです

呪詛でしょ

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