私のそこそこ好きな言葉に内なる知という言葉がある
(ほかに好きな言葉は美女と楽して得する)
もともと自分の内側に持ってる(知っている)智慧というもの
有史以来の天才(&イケメン)と呼ばれる私が最近特に思うのが
結局内なる智慧の確認なんじゃないか?と思ったりするのです
素晴らしい本(週刊プロレス)やテレビ(ウゴウゴルーガ)
師(村西先生)や友人(ナッシング)といった様々な環境から
様々な学びを手に入れる 様々な知恵や情報を手に入れる
それらって実はもともと自分の中に眠っていた智慧の確認なのかも
それらがきっかけで内なる知を眠りから覚ます
そんな感覚さえある
人間ってどれだけ素晴らしい師や教えに出会っても、自分自身がそれに納得してないと、自分に落とし込んで身にならない
納得できるものというのは、結局もともと自分が持っていた
内なる知というもの、それらに付随するものだけなんじゃないかと思う
全然知らなかったことでも、納得して落とし込めるものというのは
結局似たような要素を自分で抱えていたからなんじゃないか?
そんな感覚がある
自分でいうのも何なんですが(てか誰一人ほめてくれないので自分でいうしかない ははは)
子供のころから結構悟ってたとこがあるような神君家康のような
子供でしたが(安倍川で石合戦を見ると、あっちが勝つと速攻わかる)
大人になって、いろんな人に会って素晴らしい教えや考えを聞いたりすると
あ~、そういうことですよね~ めっちゃ納得!!
ということが多々ある
結局もともと自分の内なる知というもので知っていたことが
そういう方々のお話なんかで表面に出てきたり
腑に落ちたりするんですよね
私のようなお仕事をしてると様々な方に合う
素晴らしい~という方もいれば
令和の困ったちゃんというような方なんかにも当然会う
(会いたかないけど)
私にとっての困ったちゃんというのは話がかみ合わない
私のアドバイス云々が腑に落ちないという方々なのです
ああ~、人種(生命体?)が違うからこりゃ無理だわな~というタイプ
ちなみに、私が偉くて彼らが馬鹿というわけではなく
どっちもおんなじなのですが、言語が違って通じないという感覚
多分私の話すことは彼らの内なる知には埋蔵されてなく
彼らの考えというものが私の内なる知には埋蔵されてない
そういうことなんだと思うのです
私が思うに、智慧の埋蔵量というのは、変えることはできないのかもな~
増やすとしたら、相当長い年月をかけて思考が変わって
智慧という鉱物に変化して増えていくものかもな~と思う
ただ埋蔵量は増えなくても、採掘量は増やせると思うのです
賢い思考、様々な刺激云々という効率の良い採掘法に変えていけば
原油と同じで大事なのは智慧の利用の仕方
石油にしたりプラスチックに加工したり、智慧というものを
いかに有効に製品として加工して使うことができるか
人生の勝負って結局採掘して製品化していかに有効活用できるか
これらをひっくるめての過程が大事なんです
埋蔵量の大小よりも
どうせ人間なんて内なる知という地下資源を掘りつくすことなんてできっこないのですから
ちなみに楽して得するという女子高生チックな言葉がモットーな私は
採掘量を増やすという効率の悪いことよりも
今ある製品をいかにちゃっかり効率的に活用するかを重要視しちゃうタイプです
製品化というのも中々大変ですからね~ 品質だって上げなきゃあかんし
だったら今ある製品(自分が置かれてる環境等)を有効に活用する方が
断然楽で