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北条義時の死の真相と呪われた源氏は八幡太郎義家の業

毎週楽しみに見ている鎌倉殿と13人

そろそろフィナーレで悲しいですが

 

承久の乱という、義時&政子vs後鳥羽上皇という戦いを描くとこまで

やりそうですが

教科書ではさらっと一行で終わる承久の乱

ですが当時としてはとんでもないこと!!

 

鎌倉殿でも毎週のように頼朝や政子、義時なんかが念仏唱えたりしてますが、今と違って神仏と言うものヘの帰依がそれほど深い時代

 

戦後の天皇制しか知らない我々にとっては、天皇に弓を弾くって

そこまでのことか??と言う認識ですが

 

当時の感覚でいえば、今でいう伊勢神宮に対して弓を弾いちゃう

(弓を弾く=戦で滅ぼす)

 

それくらいの感覚だと思うのです

現代だって、天皇制反対!!とデモを行う方々でも

伊勢神宮の境内で、伊勢神宮を解体しろ!!とはデモしたくないと思うのです

 

なんだかどえらい罰が当たりそうじゃないですか??

戦前なんかは天皇は現人神という存在でしたが

 

日本では現人神を超えようとするものは横死するという法則があるのです

 

織田信長しかり、一休さんで毎回やり込められてる

将軍様の足利義満しかり

 

ちなみに信長公は、安土城で自分を拝ませた云々と言うことで

歴史家的には頭いっちゃってる、普通じゃない!!という認識ですが

 

私なんかは、新興宗教の教祖様たちのように自分が神となったというよりも

天皇と言う現人神を超える象徴となるために、自分を拝ませる

そんな対抗策だったと思うのです

 

信長自身、自分を拝めば経済的に豊かになるといった今風に言えば

現世利益を打ち出してるのですが

 

それも、信長の治める都市は、楽市楽座や関所の廃止、1銭斬り

といった経済や流通を促進し、住民を豊かにしなおかつ治安の安定にも努めるという現実的な法案のおかげでなんですね~

 

ちなみに信長が天皇を超えようとしたという説の根拠の一つに

安土城には天皇が行幸するようの建物を作り(天皇がお泊りになる屋敷)

その屋敷って天主から見下ろせる場所なのです

 

これって当時の感覚でいえばどえらい失礼なこと!!

戦後の日本だって、皇居を見下ろすと不敬‼!と言うことで

昭和の49年まで高さ100メートルを超えるビルを作っちゃあかんと言う

自主規制があったくらいですから(丸の内では)

 

そんな感じの天皇を超えようとすると、悲惨な死に方をする説で考えると

北条義時の死というのも、必然と言う気がとてもしますな

鎌倉幕府の正史では、妻の伊賀の方が毒盛ったという説で描かれていますが

 

霊的に言えば(オカルト的)天皇を守る霊的な存在が、伊賀の方を使って義時を毒殺させた

そんな感じかもしれないですし

その毒と言うのは案外都経由でもたらされた可能性もあるかもな~

そんな気がしたりします

(ちなみに日本三大怨霊の崇徳上皇を保元の乱で破った

平清盛と、頼朝の父ちゃんも、横死)

 

頼朝の子供たちは皆さん無残な無くなり方をして、源氏嫡流の血と言うものはあっという間に途絶えたりするのを見ると

源氏と言う血は呪われた血だよな~とつくづく思います

 

平氏や奥州藤原氏、はたまた鎌倉の数々の御家人たちを滅ぼして

恨まれとるしな~と思ってましたが

 

最近ふと思ったのは、実は頼朝が崇拝していた源氏の軍神ともいうべき

八幡太郎義家

この方源氏の神様のような存在ですが

実は結構残虐でもあり

 

かなり残虐な刑を行ったりもして、当時の同時代の人々からも

その残虐性で畏れられてた一面もあるのですが

 

案外その辺りの八幡太郎義家の業が巡っていったのかも

業も徳も4代間で持ち回りと言う説がありまして

 

頼朝にとって義家は曾祖父 ちょうど4代前のご先祖様

源氏が武士の支持を集めていたのは、

 

義家の奥州征討は朝廷から全く恩賞がもらえなく、仕方がないから義家が自腹切って武士たちに恩賞を与え、その恩義で支持をされていたという

https://news.yahoo.co.jp/articles/00b817a3cafaf459ca264b682b8d354911d8cfba?page=1

義家の徳の部分と残虐性と言う業の部分、両方を受け継いだかも

頼朝自身も、御家人たちの土地の所有権を認めることで

支持を集め

 

後には御家人たちを粛清しまくるという残虐な業を作ってると考えると

八幡太郎の徳と業を一身に受け継いだといっても過言ではないのかもですね~

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