鎌倉と陰陽師の続きです
鎌倉と陰陽師と言えば、京の都に次ぐくらい陰陽道が盛んだった時期が
あったくらいの実は陰陽道都市
鎌倉殿の頼朝さんが作った鎌倉という都市設計自体にもかなり陰陽師が深くかかわっている
鎌倉以外にも播磨や長島町(三重の)なんかも陰陽道が盛んではありましたが
前者はいわゆる法師陰陽師、後者は秀吉の陰陽師刈りから流れてきた
方々でどちらも民間の陰陽師
京や鎌倉の陰陽師との違いはやはり政(まつりごと)に深くかかわってるかどうかでしょうね~
ちなみに我が家も民間の陰陽師なので当然政には関わらずに
陰陽道というエッセンスを持った民間の拝み屋さんです
さてその鎌倉の陰陽師ですが
昨日の鎌倉殿でいえば、源氏の血を引いた3代将軍実朝の時代までは
そこまで派手な祭りは行っていなかった(行えなかった)のです
ちなみに以前もブログに書きましたが、鎌倉に陰陽師を持ってきたのは
都のそんなに高い身分ではなかった実務官僚であった大江広元と睨んでます
なぜ派手な祭りが出来なかったのか?その理由は大江広元だったんだと感じます
この方、都時代は正直言って下級貴族でこれ以上の出世も見込めない
男でした
これがポイントで
当時の陰陽師は、今でいう国家公務員といいますか、官の役人というご身分
大江広元の力で連れてこれる陰陽師という方々は結局
陰陽師のなかでも身分の低い方々だったんじゃないかと思います
(とはいっても源氏の拠り所である鶴岡八幡宮で
陰陽道を代表する祭りである泰山夫君祭は行われてるので
これは頼朝立っての希望だったのでしょう)
こちらは滋賀の園城寺縁起の一つ利益縁起の一コマ
安倍晴明が病気祈祷を行うと式神がやってくる場面
陰陽道は鬼神夜叉の類なんかも相手にしますからね~
園城寺は陰陽道とも縁の深いお寺ですが、源氏の祖、頼義が奥州平定の
祈願を行ったり、
新羅三郎が元服を新羅明神の前で行ったり
頼朝の義円が出家したり、園城寺にいた従弟の円暁が(弟説もあり)
鶴岡八幡宮のトップに就任させたり
昨日比企の尼のにそそのかされていた公暁も園城寺で修行してたりと
何かと縁が深い
もしかしたらその関係性なんかでも頼朝が陰陽道を取り入れたのかも??
鎌倉殿の描写でもあるように頼朝時代の祈祷云々は
まだ陰陽道というよりも密教が中心だったらしいですしね
さて実朝が暗殺され(ネタばれなので誰にかは内緒)
次の将軍はいわゆる宮将軍と呼ばれる頼経を摂関家である九条家から
迎え入れましたが
実は幕府の崩壊はこの時点から始まったともいわれているのです
頼朝は何故平家を追討し幕府をひらけたのか
その理由は、鎌倉の武士たちの長年の夢が都の朝廷からの東国の独立
この希望に乗っかって鎌倉独立国を目指したからなのです
都の摂関家(貴族の頂点)から将軍を迎えるということは、
幕府の根幹を揺るがすことだったんですね~
さてその教経が都から多くの陰陽師を連れてやってきたのです
大江広元とは違い、摂関家という公家の頂点出身なので
都の貴族たちに気を使わなくてよいのでいわゆる高級官僚の
陰陽師たちを
その結果、今まで鎌倉で行うことがためらわれてた陰陽道の大切な祭り
四角四境祭と七瀬の祓を行うことになったのです
頼朝や頼家ではそれらの祭りは朝廷に対して畏れ多くてできなかったのですが頼経の命令であれば遠慮なく行えた
そんなとこなのです
ちなみに前者は都では内裏(天皇のお住まい)の四隅と
四境は山城国(京都)の四隅で行う祭りで
疫病や天皇の病気などのまがごとを押さえる祭り
後者は天皇の様々な禍を7つの人型に乗せて7か所に埋めるというもの
人型と言えば全成ロスの原因となったあれです
これを頼経時代から鎌倉では少なくとも2度は行ってるのです
これも人型を8つではなく7個だけにしとけば
おお~と思いましたね~
ちょっと甘いね
さて四境祭をおこなった四か所までが当時の幕府の鎌倉の内側の認識だったのです
ちなみに義経が頼朝に釈明しようとしてとどめ置かれた我が家のお隣
(道向こう)腰越ですが
一度目の端っこは七里が浜だったので
頼朝時代は鎌倉の外側という認識だったので
義経はかまくらにはいれなかったのd