先日の愛ネコちゃんの緊急祈祷の詳細を飼い主さんから伺ったので
詳細と祈祷の実際のお話
こちらが緊急祈祷をした時の記事
愛ネコちゃん御年14歳のご長寿さん
祈祷終わったよーと連絡すると出なかった箪笥の隅に丸一日
出なかったおしっこをしていた
ちょっと血尿
緊急病院で検査をすると腎臓以下の臓器に全く問題がない
どころか臓器健康とのこと
おしっこを採取するも全く血は混じっていないとのことで
飼い主さん大いに驚く
どう考えても祈祷~病院で検査の数時間の間に腎臓等が治ったとしか思えない
ジミヘンさんってば救世主(と書いてメシア)だったのね!!
と夜空に叫んだ(はず)
(私的にはKENZOの明るい未来が見えましぇん~のが笑えた)
さて祈祷ですが 理趣分というもので拝んでいますが
密教立てなのでどんなことをやってるのかは内緒
なのでどんなことを考えながら(意識しながら)やってるかということを
気功やら治療家の先生やら祈祷をされる方やらなんかは
結構詳細なイメージを凝らしながら治療する方って多いと思うのです
病巣に気を照射なんかを詳細にイメージする的な
私の場合は実は真逆でなんもイメージしないのですね~
皆さん原因なんかも探ろうとしますが、密教の場合自分が行うのでなく
本尊様をはじめとする神仏様が行うので原因なんかも探らない
術やら行やら拝んだりやら霊視や占いや相談なんかしてて今の段階で私がたどり着いた境地って
結局人間なんてな~んも分らんとうこと
原因もどうなるか、治療の過程や宿業云々も結局分からんのです
確かに視えたりドドーンと分かった(気がする)云々もなくはないのですが
あくまでも私にとってはというものが大前提なので
それが正しいのかはたまた正解のほんの一部なのかって誰にもわからんし
多分分からんようになっている
科学がと~っても進歩しても結局解明できないことって山ほどあって
それを解明しようと努力することが人類の進化、科学の進化につながる
そんな感じで正解を提示というものではなく
問題を解決しようとすることによって進化するという過程が大事なもの
もしかしたらそれが真理の気がするので
分からんようになってるという気がする
いわゆる悟りなんかも同じで、最終的な悟りの境地なんて本当は
ないんじゃないかと思う
悟ったと思っても実はまだその先の境地がたっくさんある
ORそれはそれで真理の一つだけど真理って山のようにあるものなのよ
そんな感じなのでしょう(あえて悟ったという言葉が妥当な境地って
これという何かをつかむというよりも
結局その先の先というものがあるのよね~と知ることなのかも)
なので原因や祈祷がどう効く、治ったイメージ云々も全く持たないのですね
別に自分が原因を知らなくても神仏様が知ってればよいわけですし
結果なんかも人間が望む結果って往往にして間違うものなので
神仏様にお任せ、神仏様から見てよい結果~という感じなのです
尿が出ない~腎臓をと意識しても実は原因は腎臓じゃないかもだし
もっと複合的な可能性もあるかもですし霊的なものかもですしね
自分には無理だけど神仏様なら大丈夫!!と強く思うというより
確信するくらいというのがと~っても大事
もしかしたら結果のイメージが大事なのかもですがそういう場合は細かいイメージよりも(腎機能が云々やおしっこしてる)
もっとざっくりと健康に生活してる姿とかの方が良い気がとってもします
あくまで現時点の私の思うことではありますが
結局はその人その人に合った意識の持ち方をつかむというのが大事なのでしょう
と同時に機能美というものがありまして
野球なんかでもその人その人に合うホームというものがありますが
それを突き詰めていくと皆さんに多様な境地と
大事なポイントの動きというものは結局同じようなものになっていくのでしょうね
インパクトの瞬間であったり、構えた時のトップの位置を動かさないといった感じのものは
ちなみに最近とても思うのが身体操作と同じく思考というものも
機能美ということがとっても大事なんじゃないかということなのです
機能的で美しくない思考というものはやはりよろしくない