ツイッターで加門七海先生が、山なんかで石仏や祠に手を合わせて
怖いことが三回ほど起きたてきなことが投稿されていた
手を合わせるのっていいことなのにそんなことが起きるんですか??
てきなリプがあったようななかったようななので
私が勝手に思ってることを
手を合わせるっていいことですがそういうことも起こる可能性はあると思うのです
特に何でもかんでも祈願しちゃうのはとっても危険
交通安全でお亡くなりになられたお子さんの慰霊のお地蔵さんに
祈願かけるのはよろしくないと言われますし
建てられた目的と合致しないものはやはりよろしくない
中には封じていたりする古いものもあったりしますしね~と思う
昨年の修験なんかでも、ある古い慰霊碑なんかを皆さん写真撮ったり
近づいて書かれてることを解読しようとされてましたが
私なんかは絶対近づかないし、写真なんてもってのほか!!
それ見ながら、ある霊能の高い先達の方に、あれまじで怖くないんすかね??と聞くと
自分も古いものは基本写真を撮らんとおしゃってました
やっぱ怖いもん ははは
慰霊碑的なものや供養的な意味合いのものは、目的とした人たち以外の
存在なんかも寄って来とる場合も結構ありますからね~
なのでその手のものが供養を求めて寄る場合もありますし
祈願に適した目的ではないものに手を合わせた場合
いわゆる人間の魔性の部分を欲しがる魔と呼ばれる存在が憑りつく場合も
やはりある
その手の霊的存在って都会よりも、山の中や自然が残る場所に生息してる
割合が高いと思うのです
手を合わせるという行為自体はとっても素晴らしいことですが
何でもかんでも祈願に結び付けるのはやはりよろしくないし
手を合わせてその手のものがちょっと寄っちゃう場合もやはりなくはない
というのが本音です
修験なんかも山の中の経塚や石仏拝みますが
その際はいわゆる護身やったり錫杖経唱えながら錫杖振るのは
そういった存在から身を守るためなんだと思うのです
手を合わせるって良いことしてるのに、なんかついたりする可能性があるというのは納得いかんという方もいるでしょうが
世の中なんてそういうもの
理想通りではなく案外不条理にもできてるのでしょうがない
山に入るということはそういうことも込みでそういうことと思って入るのです
本音を言えば、手を合わせてなんかついた、何とかしたいではなく
山に入る前から(普段の生活から)
そういうものから身を守っていただける先祖霊や霊的存在に
強く守ってもらえるようになっとくことが結局一番大事だと思うのです
本当に困ったときに助けてくれるのはまず先祖霊!!なので常日頃から
供養はしといた方がええですし
神仏様が、あいつは感心な奴だから、助けてやらんとな~という
人物を目指すのも大事なこと(人物になるのはとっても大変なので
今の自分より少しだけ神仏様に愛されるであろう人物を目指すのは大事)
身を守るということの根本ってそんな感じな気がする今日この頃DEATH
ちなみに私が常日頃思うのは
相手を嫌ってれば当然相手から嫌われるし
悪口言ってれば当然言われとるよねということなので
好き嫌いをなくすというよりも、まあどっちでもええよね~という
グレーゾーンを増やす生き方したほうが気が楽になります
人生楽になります
白黒つける生き方はしんどいよ~