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術と法の違い

術と法の話の続きです

術が能動的とすれば法は受動的

 

術が方法論の世界であるとすれば法は神仏を介在としたもの

(私が勝手に思ってるだけですが)

 

神仏を介在として~ということで動くのは行者ではなくあくまでも神仏

行者さんの役割は

 

サラリーマンやお役所的に言えば決まった書式で提出書類を作って

上司に出す

そういうお役目なんだと思うのです

 

そこに私情やオリジナルな書式云々は必要なく、

なのだと思うのです ま、陳情書を決まった書式で提出して

お役所に受け取ってもらう

 

 

そこまでが行者のお仕事で、その先の改善云々ということで動いてくれる、どう改善していってくれるということはお役所のお仕事

 

そんな感覚なのだと思うのです

そこを自分がしゃしゃり出れば出るほど、神仏は隠れていく

あくまでも陳情書を提出してあとは待つだけ

 

神仏の言葉や何かを受け取るだけ

そういうものだと思うのですな~

 

受け取れないから、わからないから動いていないかというとそういうもんでもない

 

我々人間なんかが認識できるものなんてほんの表面の一部だけで

認識できないとこで動いている

 

はたまた認識というものをさせる必要がないと神仏が思っているのかもしれないですしね

動きなんかも、私が良~く感じるのは

 

奥の奥の方から神仏という存在は手を付けてることが多いよな~

と思うのです

表面の分かりやすいとこからというよりは、いわゆる奥の方の因縁というものから

 

なので中々働きが分かりにくい、そんな感覚は結構あるかも

ま、その辺の含めてすべてお任せ

 

思ったような結果になるかならないか、それも神仏様にゆだねるというのが本当は一番大事なのでしょう

行者さんだけでもなく、お願いをする方達なんかも、願望というものに対して

自分の願う成就の形を強く持てば持つほど、案外神仏さんの働きは弱くなるかもですね~

神仏の思う良き成就の形と、我々の思う成就の形って案外隔離してる場合多そうじゃないっすか

 

今回の小室、眞子様の結婚も、もしかしたら眞子さまにとっての

望ましい成就という形に執着しすぎた結果が国民の大反対~

であるでしょうし

 

そこの成就の形に執着しすぎなければもう少し形は変わったかもです

ま、これはもしかしたらこの成就が幸せ~と言う結果の可能性もなきにしもなので分かりませんが

 

私がいつも思うのが、結果が現れるお願いってあるじゃないっすか

試験であったり恋愛成就であったり

 

これらって,はなっから学力的に、条件的に無理でしょ~というのは

除外で(それはお願いするというスタートラインに立つべきものではない)

 

どっち転んでも分からんよね~と言うものであれば、試験に不合格~

お見合い失敗~と言う結果になったとしても

 

それは神仏が道を示してくれたという取り方も大事だよな~

そこはあんたが進む方向じゃないよ~

違う方向に進むべきじゃないか??もしくはもちっと実力をつけるという過程が必要です

 

その過程が将来大きな力となって差を生むのです

そんなかもしれないですしね~

 

そこも、さて神仏様は何を示したいのかな~とよ~く考えるのも

凄く大事

受け取る努力と言いますか

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