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崇徳上皇の呪いは本当だったのか 

日本最大の怨霊、崇徳上皇の続きです

日本には怨霊信仰というものがあり、法則化されてたりもするのです

 

やんごとなき方であればあるほど、巨大な怨霊と化す

なので我々庶民や武家階級なんかよりも

 

無念の思いで亡くなった皇族の方が怨霊と化しやすい

逆に言えば、武士であった将門公はよほど強力なものを引き起こした

ということなのでしょう

(これはまたそのうち)

 

怨霊化したやんごとなき方々を鎮めるには、立派な諡号を送ったり

それでもダメな時は神として祀るという法則がありまして

 

聖徳太子や聖武天皇のように聖というとっても立派な文字を使うというのは、最大級の畏怖だったりなのです

 

聖徳太子なんかは聖に徳ですからね~

当然怨霊化をとても恐れていたのでしょう

 

さて崇徳上皇、この方が配流されて以降、天皇の親政というものが

日本から消え去り、文字通り武家政権となってしまいました

 

その辺りも含め、やんごとなき方々は、日本最大の怨霊!!

と恐れていたのです

 

時は移って明治維新、平安時代以降初の天皇親政(一応形としては)

の時代となった時、やはり一番恐れるのって

崇徳上皇なのです

 

天皇親政の最大の障害ですから

どれほど時の新政府や天皇をはじめとする皇族が崇徳上皇を恐れていたかというと

 

大政奉還が終わって、明治天皇が讃岐で眠る崇徳上皇に勅使を送って

長い間讃岐に眠っていただき大変もうしうぇあけありません

今後は都に戻っていただき~

 

そんな勅使を送った8月26日が崇徳上皇の命日

そして謝罪の勅使を送った翌日に明治天皇はようやく即位

 

船に乗って崇徳上皇の神霊が都にやってきたのが9月6日

新たにお祀りするのに適した場所を探したと記録があるので実質

白峯神宮に祀られたのは多分翌日の7日

 

そして明治という元号にようやく改元されたのが翌8日

どれだけ崇徳上皇を恐れていたか!!

 

ちなみに崇徳上皇を都にお戻しする計画は明治天皇の前の孝明天皇が

幕末に政権が江戸から都に移ってきた時代の風を感じ、GOサインを出したと宮内庁に記録にもあるのですが

その孝明天皇も病死され、なおかつ崇徳上皇の死後700年目に

 

いわゆる禁門の変で御所に大砲がぶち込まれ,戦火の舞台となってしまうという空前絶後の事態も起こる

 

そりゃあ、崇徳上皇の呪いと恐れおののきますわな!!

ちなみに霊能者だったと言われる明治天皇が東京で参拝した神社は

招魂神社(靖国の前身)と神田明神だったというのはとても興味深い

 

前者は納得じゃないですか

神田明神の場合は神社側が、朝廷に反逆した将門公を天皇が参拝するなんて恐れ多い!!ということで一時的にお末社に移したという話が残ってる位に

 

恐れ多くてあり得ないこと

逆に言えばそれだけ明治天皇自身が怨霊信仰というものを重く受け止めてた方だったのでしょう

 

さて皆さん一番興味があるのが、実際崇徳上皇は怨念となったのか?

だと思うのですが

私が以前から感じてたことを

この方の場合、将門公や道真公と違って二本立てで考える必要があると感じるのです

 

自分で呪詛を行って呪詛的な怨霊と、やんごとなき方であればあるほど

背後に強力な霊団があってその者たちが主の意をくみ取って勝手に動いていく

 

そんな感じの二本で

ちなみに将門公や道真公の場合は、自分の呪詛ではなく

やはり背後霊団が強力に動いたのだと感じます

 

ちなみに将門公の場合はそれらがまだまだ現役でしかも強力に働いてる

のでやはり神田明神様なんかで不敬というのはおっかないっすね~

 

私の感覚では、実は江戸期に入ると、かなり落ち着いてたと感じるのですね

 

背後たちの気性が

家康公が江戸に入り、天海さんあたりと江戸の霊的防御したじゃないっすか

その時に荒ぶる神ではなく、江戸の総鎮守として

 

そんな感じのキャラクター付けして祀りなおした感じがすごくするのです

暴れず穏やかに守ってください的に

 

明治新政府になり明治天皇が東京にやってきて天皇親政の時代

今度は江戸の総鎮守というよりも、江戸幕府という軍事政権であり

敵の大本営であった江戸を抑えるためには

 

荒ぶる強大なお力で~ そんな感じで祀りなおさせた気がとてもするのです

明治新政府になったとはいえ、まだまだ不平士族等の反乱分子たちが日本中にいて、国内統治が落ち着いていない時代でありましたし

 

ということで崇徳上皇編は続きます

 

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