とっても真面目に祈願というものを考えてみる
まず大事なことは祈願する相手が
何を考えどんな考えを持っているのか
神社であればどんな神様なのかも大事かもしれない
将門公や道真公のような怨霊系の方々
まだ怨霊となって怒ってるのか
はたまた神上がりをして、
逆に自分が苦しめられたこと、無念の思い、
同じような思いの方達を助けてあげようと
思われる存在か
このお二人は怨霊というより
もうそんな存在となってると言われますよね
道真公の場合は学問の神様という側面ばかりですが
実は不当な扱いで苦しんでる方達なんかを
良く助けてくれる
将門公なんかは道半ばで頑張ってる方を
助けてくれるとも
仏様の場合は、基本衆生の救済と言う
請願を建てられてるので
困った人を助けてくれる存在
いつも書きますが衆生救済というのは
困った方を助けるわけで
願望を成就させますよ~ではない
そこ大事だと思うのです
自分でやれることがまだまだあるうちは
まずは自分で手を打つってすごく大事
ただ人間のできることなんて限られてくる
私の周りでも、こりゃあどうにもできんわな~、
打つ手なし
そんな状態の方もやはり何人もいる
本来はそういう状態の本当に困ってる場合に、
仏様のお力やお知恵を~なんだと思うのです
もう、どうにもなりません~、
すべてを仏様におゆだねします
それが大事なんだろうな~
プロセスから結果まですべてゆだねちゃう
本来は、病気を治してください、
お金をお与えください~
そんな願意まですべて任せちゃう
願意=原因じゃないですか
それくらいゆだね切れるかが本当は大事なんでしょう
人間なのではっきり言ってそんな境地にはなれない
願望、結果、プロセスを全て委ねるって
怖いじゃないですか
自分の思いとは全く違う展開って望まない
じゃないですか
人間って結局お任せはするけど、
手綱は自分で握っていたい生き物ですもん
私も同じなのですごくその気持ちわかります
ただやはり、手綱をギュギュっと強く握ったままでは
中々、展開していかない、
動かないというのも現実
仏様サイドにしたら、握ってる段階では、
ああ、まだまだあなた主導でいたいのね~
まだまだやれることもあるのね~
と言うことであまり干渉してこない
私が思うに、本当に神仏様であれば、
過干渉は望まない場合が多い
逆にとても過干渉な存在ってよろしくない場合もある
手綱を離す度合いによって干渉の度合いも変わってくると思うのです
そこって結局どれだけ神仏を信じれるかの
度合いによると思うのです
信じれなきゃお任せできないもん
じゃ、どうするってはなしですが
そこが毎日のいわゆる信心というものの
積み重ねなんだと思うのです
毎日仏壇や仏像、神棚なんかに手を合わせる
多分興味のない人にしたら、
本当に信じてるの??神や仏がいると思ってる?
そんな感じだと思うのです
逆に言うと、いやいやいや、
信じ切れてないから毎日手を合わせてるんだよね~、
そんな感じがスタートでもいいと思うのです
神様がいるかって本絵は分かんないんだよね~
見たことも声聞いたこともないし~
普通じゃないっすか
でも存在を信じたいし感じたいし~
それで充分でしょ
ちなみに私なんかはあっちの神社こっちの神社
あちこち行くのも、別にいいけどね~と言う感じ
結局あっちの神社で感じなかった、こうかなかった、
だったらこっちの神様なら~の繰り返しじゃないですか
いろんなとこ行くのもいいけど、
信仰する柱というのはどこかに決めておくのは
大事だな~と思いますな
それがあってあちらこちらとなくてあちらこちらって
かなり違うと思います