以前豊臣恩顧の武将で結構毒殺では?と書きましたが
おらが村の大スター森下千里ちゃんと並ぶ加藤清正さん、この方は巷でも言われるように毒殺と感じます
ちなみに生まれが我が実家のすぐ近くという文字通りのローカルスター!!なのですがいかんせん、そのすぐお隣に太閤さんの出身地である
豊国神社と公園があるので残念ながら地元では埋もれがち!!(熊本での人気の方が圧倒的な早すぎるくまモン)
ちなみになぜかというとそう感じるから ははは
実家のすぐ近くにこの方の生誕地があってお寺になっていたのよく出生地に行ってたのです
そして案外意識拾ってたのです
(ちなみにすぐ裏が競輪場なので、ダメな親父たちの意識も)
競輪場に吉牛という最高の喰い合わせのあるお土地柄!!(ついでに昔は伝説の梅達亭まで ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル)
実は死の間際まで意識がしっかりしていて自分で毒殺と分かってた勘があるのです
へっぽこリーディングですが
言われてるように二条城の会見で毒を盛られていると分かっていながら
あえてそれを食べたと感じます(実際は饅頭というよりもお茶か何かに入れられてた気がすごくしますが)
豊臣家のために捨石にという覚悟
ここで自分が飲まなければ家康は豊臣に逆意ありと思う
しかしここで自分が飲んで死んだとすれば
豊臣家で徳川に組するほどのものはいなくなるから
つぶされずにおとなしく配下にと思った感があります
もちっつ突っ込むと、合戦になれば、淀さまは未だに自分のような豊臣恩顧の大名は味方すると思っている
それもあって大阪城を出て国替えという条件を突っぱねてるけど、豊臣恩顧の最大の大名である自分が死ねば、
徳川には対抗できないと諦め国替えにも従うのかも、とそんな一部の期待もあったと感じます
(期待というより、本音は無理だろうけど心変わりしてほしいという願望)
ちなみに清正公は徳川に弓を引かせる気はまったくなかったですから
もしそうなる場合は自分が秀頼公の前で腹掻っ捌いてもおとめするという覚悟を以前から持ってますね
それもあり、覚悟の毒殺死を選んだと思います
大恩のある太閤殿下へ最後のご奉公、そんな感じだったのでしょう
さて毒殺説ですが、文献にないと反対側の立場の方はいいますが
そんなのある分けない。書き残すわけないでしょ?
しかも当時は解剖学やらもないので死因毒殺って特定できないですし
ただ皆さんが思ってるより毒殺は多いです
なぜってうちも結構話し残ってるから。海の毒はフグ使って山の毒は〇〇使う~というような口伝が
ははは
さて犯罪では最も得した人間を犯人と疑えが常識でしょ?
この場合どう考えても家康さんじゃないですか?
対豊臣となった場合誰がもっとも厄介かというとやはり福島、加藤の両巨頭だったと思うのです
テレビ的には真田親子としたいとこでしょうが、実際は意識すらしないくらい
大阪城に真田が入ったと家康が聞いたとき、ブルって障子をがたがた揺らしたと言われてますよね。
それは親父か息子か?と聞いて親父は死んだから息子です~と聞いたらほっとしたと
それはありえない!!意識をしたとしてもあの忌々しい奴らめ、つぶしてくれるわ!‼程度だったと思います
今でいえばアメリカ様に、猪木島に流されたカリブの小国の大様が戦争仕掛けようとするもんですから!!
ちなみに福島さん(文字通りワンみずほとなった瑞穂ちゃんじゃないよ!!
一人を笑うなという秀逸なキャッチコピーを付けましたが、そりゃあ笑います!!)
何度も書いてますが 歴史的には猪突猛進ないのしし武者ですが
実は豊臣恩顧の大名のリーダーであり人望もある方
関が原の勝因ってこの方を味方に引き入れたことメッチャ大きいじゃないですか?
なので関ヶ原で最も恩賞をもらったのが、合戦自体は大した活躍をしてない黒田長政さんなんです
理由は福島正則を味方に引き入れたから!!
ちなみに福島さんと加藤さん、もしこの両巨頭が広島と熊本の大藩の藩主のままで
大阪の陣で豊臣について秀頼を熊本城に迎え入れていたらどうなったでしょう?
厄介ですよね~
350年後の西南戦争で西郷軍が近代兵器駆使して大群で囲んでも落城しなかったですから
しかも江戸から離れた九州の地というのがまたね~
面白そうです 大阪城の場合は大坂の陣の時、築城されてから30年経過した、
旧式の武器を想定したお城でしたが熊本城は築6年で、最新の兵器を想定したお城ですからね~、
しかも前提として対徳川ということをリアルに考えてたお城なので