密教では法というものがある。弁天法とかそんな感じのもの
本なんかも出てて、中には本買ってきて自分でやる方もいますが、本ってやはり口伝と呼ばれる最も大事な部分をわざと抜いてある
親切なものだとロイと書かれてたりはしますが(口伝という意味)
それさえ書かれてないものも多分多い
口伝も当然大事ですが(肝なので)それ以上に大事なのは結局誰から伝授を受けるかなんだと思うのです
密教なんかだと師匠を大日如来だと思わなあかんよ~と言われます
悪口なんかもってのほかと
そうはいっても人間だもの。
どんな立派でお偉い師匠や、どこそのどえらい方々でも当然欠点がないわけがない
世の中欠点の無い完璧な人間なんているはずはないじゃないっすか
そこを揚げ足取ってあの人はああで云々と文句ばっか言うのはよろしくないのです
(ちなみに密教云々関係なく人の上げ足や悪口ばっか言う人ってやっぱ運悪いもん。
人間悪口は言うもんではないですYO)
そういうのって結局は伝授という場面で大きく差が出ると思うのです
法って結局はどれだけそれに重きを置けるかが大事なのだと思うのです。
同じ法を受けたとしても、普段短所を見つけて不平不満をあげつらう相手からなのか、
それとも、この方から受けることが有難いと思う相手からなのか、その時点で法の重さは全然変わる
重さが変わる=当然効果が変わるのです
私にしたら結局、皆さんが知ってる般若心経や観音経だってとても効果のあるものでしょと思うのです
般若心経で効果上げれない方はどんな凄い法や術やっても効果上げられないと思ってるのです
誰もが知ってるもの=効果がないと思われがちですが、それはそこに重きを置いてないだけ
だって昔の田舎の拝み屋さんの祖母ちゃん達なんてそんなむづかしい法なんて知ってるわけないじゃん
伝授だって受ける機会があるわけないし、そもそも、文盲の場合も多いんだから
書だって読めない以前にない場合が多い(てか田舎なんかは喰う喰わずの時代なので家に書なんかあるはずない場合多し)
ばあさんビックリの図!!
そう考えるとやってたことなんて簡単なお経や真言程度が多いと思う
延命十句観音経のみで祈祷してたとかアビラウンケンだけで(しかも真言を間違えてた祈祷してしかも効いてたという話もあるくらいですから
やはりそれにどれだけ重きを置けるかが大事
そういうばあさんたちはそんな簡単な真言やお経もとてもありがたく、
とても効くお経と重きを置いてたのでしょう
さて行法というものが密教にはありまして
そこにはいろんなことが書いてある
これをするとこうなるみたいな感じのことが
分かりやすいイメージで書くと龍がやってきて雨降らすよ~みたいな世界
本当か???またまた~というような内容じゃないっすか
現代人にしたら ははは
ただそれがあるのです
とある行法をやってって、最終日、残り一座になって、くたびれたので横になってると
なんだかインド舞踊がどこからともなく聞こえる
幻聴的な聴こえ方ではなくはっきりとこの世のものとしてなのです
やだな~、上の階にパキスタン人でも引っ越してきたのかな~と本気で思うくらいに
(ちなみに上の階はそのころ売却中で誰も入居者はいない)
そんな感じで最後の一座が終わるまで結構長い時間聴こえてたのです
(それこそ5時間くらいにわたって)
行を終えて師僧のとこに報告しに行くと、そりゃあ摩睺羅伽だわ。
行義(教科書のようなやり方を書いてあるもの)にも阿修羅マゴラカが音楽奏でて踊るとかいてあるっしょと
今ちょうどマゴラカのお像を手に入れて修理に出してるけどあんたいるか?と聞かれ、
このタイミングで手に入れて~と言うのはうちに来る縁があったのね!!ということで
わが家に来たのがこちら
ちなみに宝冠に隠れてますが、頭の上には蛇が乗ってます
この方自体のお像がめったにないのでかなりレアなお方です
次回も摩睺羅伽さんのお話続きます
(ちなみにさらっと書いてますがそのタイミングで摩睺羅伽像を手に入れてたと言うことに
相当びっくり仰天な私)
摩睺羅伽さんなんて今まで聞いたこともなかった
(行儀に書いてあったので初めて行中に知ったくらい)
ので、まあ縁というものは不思議なもんだな~と