さて私が最近神仏様で思うことがありまして、実は神仏様という方々も派手なことってそんな好きではないのかも
特に観音様やお地蔵さんのように穏やかなお顔で慈悲~と言う方は
そんな気がしてならないのです
自分が表に出て、こんなにしてやったぞ!!そんな感じの強烈な昭和の時代の新興宗教の教祖的なものは好まないのだと思うのです
あくまでも控えめにそっと裏で支えてくれる、そんな昭和のお母さん的な支え方、ただその支えがなくなると家庭がダダだっと崩れちゃう
そんな大いなる母性を感じるのです
皆さん祈願って派手な結果を求めるじゃないですか、即効性があってわかりやすいものを
薬でいえばある意味劇薬というくらいの効果を
ただ劇薬って効果も高いけど副作用も高い、観音様は多分そういうお薬を好まないのかも、良く効いて胃にも優しい、そんな都合の良いものはないんだぞ~道理に反してるんだぞ~
そんな感じなのかも
助け方というのも、あんま効果があったかどうかがわかんないよな~
ただ何となく以前よりは状況がよくなってるかもしれない
そんな感じのお助けの仕方が基本なのでしょう
多分そこのこっそり支えてくれているということに気づいて感謝できるかが今後の大きな結果につながるかの分かれ道
もしくは今の何事もない幸せが長く続くかの分かれ道なのだと思うのです
観音様というお方は我々人間のような下種でも愚夫愚民でもなく慈悲深く聡明な存在じゃないですか
なので思い通りのご利益を与えて人間を喜ばすのが本意ではないと思うのです
格闘技でいえばまずは弱い相手と10戦くらい戦わせて、勝ち癖や倒し方を覚えさせ、やる気スイッチを入れる
ご利益ってあくまでもそんな感じのものでそれが最終目的ではないと思うのです
さりげなく支えてやる気を出させ、きずかせて、その次の段階を無理なく目指させる、そういうのが本当の観音様の請願なんじゃないっすかね
衆生を救いますという請願を立てられてるじゃないっすか
救うととはいってもなんでも願いをかなえるとは言ってないんですよね
多分そういう聖なる方々の考える救いって物質的、精神的、
肉体的苦痛を取り除いて、次の段階のものなんだと思うのです
さてそりゃあ何だ??と言われたら、人間という社会性を持った生き物が目指すべき姿なんじゃないっすかね
社会性というのは結局他人さんや社会がないと成り立たない、それが大前提じゃないっすか
ではその社会というものとどう付き合っていくのが理想な生き方でしょう
そういうことだと思うのです
部下に切れまくったり、新人いじめたり、嫁を罵倒したり、万引きしたり、オレオレしたり、そういうのって普通に考えて理想ではないじゃないっすか
他者に対する慈悲であったりそういうものが理想なのだと思うのです
ご利益というのはそこに気づかせる、目指せさせるためのあくまでも通過点であり、そこに気づかせるための環境作りなんだと思うのです
他者に慈悲を~と言ったって、自分が喰うか喰わずの状況であったり、
病気や人間関係で自殺したい!!くらいに悩んでたら、そんなことは思えない、お釈迦様のような聖人ならまだしも我々凡人には
なのでまずはそういった苦を少しでも取り除ける環境を用意しますよ~
それが請願の救済~につながるんじゃないかな~
ただこの現実社会って結果の平等はないじゃないっすか
多分仏様の慈悲って皆様に平等に~何だと思うのです
そうすると因縁の深さ、業の深さなんかによって現実のご利益の出方の違いは出ると思うのです
同じような日照時間でも野菜の生育に差が出るみたいな感じで
ただ太陽は平等に降り注ぎます~
そんな感じかも ただ大事なのは誰にでも降り注ぐと書いてますが、
結局太陽という存在を意識した時点で、ああ、降り注いでるんだ~と気づくわけじゃないっすか
もしかしたら仏様も同じなのかも
今の状況がよろしくなかったとしても、実は支えてもらってってこの状況、そこに気づいて、ありがとう~というのが大事なのでしょう
そこが仏を感じるという第一歩なのかも
ということで続きます ア~メン