さて旧ブログで何度も書いてますが 信長がある存在と話をしたり安土城で酒を酌み交わしながら城下を見下ろしていたと
そのある存在の 声を はっきりと聞いた最初は?
実は桶狭間の合戦だった感じするのです
信長まさかの決断してさっさと出陣したじゃないですか?
敦盛舞って
そのとき行け!!という強く大きな声を聞いたと感じるのです
桶狭間って戦前の軍部の研究なんかで迂回説が有力となってたじゃないですか?
今は遭遇戦説がですが
これ遭遇戦ですね
迂回はしてないです
義元軍は隊列が伸び
その本陣を信長軍が襲ったのでそこまで勢力的には実際は変わんなかったんじゃないかな?
まさかの本陣襲撃で浮足立ってしまったという気がします
天候はやはり豪雨で襲撃時は小降りにはなってますが
足元はぬかるでますね~
義元さんは馬にも乗れないだめデブと描かれますがそんなことはないです
馬に乗れなかったではなく、今川家という格式の高い家柄なので
織田や武田と違い我が家は足利家になにかがあったら代わりに将軍をするほどの家柄!!という意識で馬ではなく
輿に乗ってたんじゃないでしょうか?
実は戦場を脱出できたかも?と感じますが
立ち向かっちゃいましたね~
このあたりは気弱なではないのでは?と感じます
やはり戦国の名将の気風を持った武将でしょう
逆に信長公であれば自軍の隊列の乱れを見た瞬間恥もプライドも投げ捨て誰よりも早く戦場を脱出したでしょう
金ケ崎の戦いのように 今の感覚では大将が部下を置いて真っ先に逃げるのはとんでもなく卑怯ですが
戦国の世で一番大事なことは大将が生き残ることなのです
生き残れば再起戦をかけれますが殺されればお国が滅亡ですから
そのあたりの大局観の差が天下人になれた信長,なれた可能性をもって討ち死にした義元の器量の差かも
昔から 都に上ってという上洛説もありましたが 近年はまず尾張をつぶして説じゃないですか?
私も昔からそう思ってました
まず総力を挙げてこの戦で信長の息の根を
都上洛は考えていなかったとなのですが最新の研究では
塗輿を義元は戦場にもっていってたそうで
これは都で乗るためのものなのだったととだったと読んだとき思ったのが
信長をつぶしてそれを手土産に上洛し将軍家に挨拶&サポート
そのための諸勢力へのアピールだったのかも?
尾張に出陣はなんと義元様はお強い!!こんな大名が将軍家を盛り立てるのであれば手出しはできない
そんな感覚だったかもです
そう考えると実は義元公名将ですよね
歴史の評価的にはあんな尾張の小国なんかこだわらずに通過して京に行けばいいのに あほやな~と言う評価もありますが(上洛説の場合)
尾張を圧倒的に殲滅して、天下に今川の名をとどろかせ上洛
それで地に落ちてる将軍家をサポートすれば、将軍家の株も上がりますからね
上杉謙信の上洛時よりも何倍も戦略的に練られてますよね~
ここで信長に殺されていなければ、義元さん副将軍位になって、実質天下に号令を~と言う立場だったかも