真言というものでも、もうこの真言は死んでる~というようなお話を聞くことがある
正確には死んでるというよりも今の時代にはもう効力を発揮しないという感じでしょう
さてお経や真言ですが
やはり長年多くの人たちが唱えてきたものというのはお経の力,功徳だけでなくそこに多くの人たちの意識の力、いわゆる意識場というものが形成されてそれ以上の力になっているのだと思います
普通に考えて1000年以上同じものを多くの人たちが唱えてきたものってないじゃないですか
しかも言語と違ってそこに何かしらの意識を意図的に乗せてきたものって
さすがに今の時代はそうでもないけど、近代化以前、もしかしたら昭和の半ばくらいまではお経や真言なんかを我々庶民が唱える時だって、
本気で意識を乗せてたんじゃないかと思うのです
救いであったり利益であったり云々と
その時間とかかわってきた総数、それを考えたらとんでもないエネルギーになってると思う
ま、それが信仰の力、祈りの力というものなのかもですが
しかもその唱えてるものが単なる言語や文字列ではなく何かしらの
力や意図をを持ったものですから
昨今なんかはよくわからん自作のようなマントラをスピ先生やはたまた霊能者なんかが神仏から頂いた!!とか言って唱えたりしてるようなしてないようなですが
例えばすごい賢い研究者が、文字の配列、響きというものを研究して
最高のエネルギーを出すような配列の真言を開発したとするじゃないですか
多分そういうエネルギーが出るものになるのでしょうが
やはりそこには意識場というものが形成されていないので効くのは
その想定した範囲内ということが多いのでしょうね
神社なんかでも,御祭神の力でということもありますが、場の力で効くとよく言われますから
やはり磁場というものが形成されてるものはとても強いです
ただそこで皆さん勘違いされてることが 真言やお経、神社でも効果がない云々ということ聞くじゃないですか
本当に効かないのかもしくは自分が意識できる範囲内では効いていないのか、認識できないのかというのもありますが
前者であれば、やはり真言や神社という意識場にアクセスできていない、力を引き出せていないということなのかもですな
例えば神様にお願いしても、見向きもされずにスルー状態かもですし
じゃあどうすればスルーされずに??ですが、皆さん当たり前のことを見落とされてますわな
寺社仏閣の神様や仏様、それにかかわる祝詞や真言ってそもそもなに??
そこなのです
昨今のパワスポブーム云々なんかだとちゃっかりお願いをかなえてもらえるとこ!!じゃないですか
マスコミなんかもそれをあおって書籍の売り上げアップ!!ですが
本来はちがうじゃないですか
本来は信仰の対象ですよね
いやいや、神社には教えがなく宗教じゃない云々という方もいますが
(教えはあると思います~)
百歩譲ってそうであったとしてもでも信仰の対象だよね~
信仰の対象とされてる方や場に対して信仰がなくお願いして願いかなえてくださいというのは無理筋じゃないか??
それちゃっかりしすぎでしょ!!と思うのです
普通に考えても
信仰の対象には信仰というお互いの共通意識があって初めてその場にアクセスできる、引き出すことができるのだと思うのです
ま、当たり前のお話で落ちは全くナッシングですが