宗教で救われるか?多分おお昔からの議論なのでしょう
救われる人もいればそうではない人もいるというのが実際でしょう
結果だけを見れば
さて私が思うことがありまして、世の中には宗教だけでなくロックに救われた、野球に救われた云々というものがあるじゃないですか
救いを求めてそれに向かうのと、好きだからそれに向かうのとは全く結果は変わると思うのです
救いを求めての場合、救われない方のほうが多い気がします
神さまや仏様が好き、仏教が好き,神道が好きで向き合う方が絶対結果としてみたら救いになってる
救われたいからという場合って、救われたとしても多分自分が思い描いていた形ではない場合が多いと思うのです
ロックに救われた!!てきなものだって、ロックに救いを求めてというよりもロックが好きで好きで仕方なく、結局そっちに向かっていった
思い描いていた世界を変えるミュージシャンにはなれなかったけど、
ロックの魂なんかで今は焼き鳥や頑張ってるぜ!!
野球の才能はなかったけど、今も草野球でライパチやってます
そこで生涯の仲間だって出来たよ~ 多分大事なのってそういうことだと思うのです
救いから始めるのもきっかけとしてはよしですが
それが好きになっていくことが大事なんじゃないっすかね
お金がなくてお稲荷様に助けを求める、お札なんかを祀って毎日熱心にお祀りする
何だかお祀りするのが好きになってきた、お稲荷さんのこと好きじゃん
それが大事なのでしょう
仏様だって困ってる人を助けます~と言う請願たてられてますが
それでもやはり仏様のことが好きであったり仏様の教えが好きな人のほうが可愛いじゃん!!
終生助けてあげよっかなーとだって思うと思うのです
ここんとこ長い間、仏教離れ深刻じゃないですか
救済を前面にという声はあがっても、仏教を好きになってもらいましょうという声ってあんま聞かない
チョイっと残念かも 仏教に親しみましょう、その先には好きになってもらいましょう
なんだと思うのです 神社や神さまって結構若い人たち参拝行くじゃないですか
この神社すごく好きなんです~、ここの神様がすごく好きなんです~
其れってすごく大事なことなんだと思うのです
救われたいがスタートよりも、好きだからがスタートのほうが絶対
良き結果となりますよね
宗教で救われるうんうんの議論、案外どれだけ神道なら神道、
仏教なら仏教が好きということが大事なのでしょう
救済前提であれば望んだ結果以外は基本救われなかったということなんですよね
人間自分が望んだ結果、もしくはそれに準じた結果なんてほぼほぼ無理じゃないですか
何とか生活できるくらいに助けてもらっても、望んでいたものが何不自由なくであったり自分が好きなようにであれば
本人の自覚としては救済とはなってないんすよね
好きであれば、結果云々じゃないじゃないですか
望むものが
それに触れている、接していることが幸せなわけですから
もしかしたらこれからの救済であったり,布教というものにすごく大事な視点なのかもしれないですな
そう考えると、昭和~平成の時代の、宗教の勧誘的な窓口
多分あんまよろしくないのでしょうね
明らかに逆効果なんじゃないっすかね
昨今の仏教離れというのはそのあたりの努力不足や視点がずれてるかもな~とふと思ったりなのです
なかなか食べれないお寺さんなんかも、もっと自分のとこのご本尊様なんかに興味持ってもらうようにって大事かも
うちのご本尊様ってこれこれこんな仏様で~という感じで
お寺のお像の説明って多少の功徳と由緒くらいじゃないですか
鎌倉時代の作で~位の
逆にそれくらいで興味を持ってもらおうというのはなかなか難しいのかも