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細川家は公家的なしたたかさで生き抜いた

最近とても思うことに、お城にも意思があるのだろうな~ということがあります

気に入らない城主というのはさっさと殺したりして気に行った城主を迎え入れる

そんな感じがしてならないのです

お城という建物自体にそんな意思があるのか、もしくはお城をたてると、たいていは神社なんかを祀るのでそこの御祭神の意思なのかはわかりませんが

東海地方の難攻不落と言われるお城に岐阜城と犬山城というお城があります

特に岐阜城は山の上にあって難攻不落の代名詞ですが

実は何度も落城をしてる

犬山城に至っては城主というものが目まぐるしく変わっている

大抵は2、3年のスパンで城主が変わっている、時には落城なんかもしているし

結局最後は尾張徳川家の付け家老の成瀬家の居城となりその後現在まで成瀬家の持ち物

(個人所有のお城はここだけ、最近はさすがに維持費や税金がきついので財団法人所有となりましたが、成瀬家が代々大事にしているお城です)

どう考えても成瀬家を城主として欲していたとしか思えないのです

また、天下人のお城として建てられた天下の名城安土城と大阪城

どちらも信長と秀吉の死後、秀頼の代で焼け落ちていますが

この二つは多分天下人以外の城主というのを受け入れない城だったのかも

焼け落ちるのは必然だったのかもしれないですね

秀頼も家康の命に従い大阪城を出て、関西のどこぞの国にお国替えとなれば生き永らえた可能性は大きかったと思いますが

それをしなかったのは大阪城の意思というのもあったのかもしれないです

仮に秀頼が大阪城を出て、徳川家直轄の城となったとしたら、江戸城のように何度も火災で天守が焼け落ちた可能性もあったかもですね

ちなみに天下の名城熊本城ですが

未だに城主は加藤清正と思ってる感じがしますが

加藤家が取り潰されたのちに入場した細川忠利さんですが

最初にお城に入るとき、清正公の位牌を先頭に掲げて入場したのです

多分この行為で熊本城は細川家に心をわしづかみされたんじゃないか??と思います

流石細川家!!ある意味戦国大名家で最もしたたかな家じゃないですか

したたかさが御公家さん風の生き残り術的なしたたかさで

学のある家はやはり違いますね!!

ちなみに改易された清正の息子忠広では器量不足!!と

熊本城自身も感じていたことでしょう

清正自身も、自分が死んだら加藤家は改易されるだろうと思っていたと思います

もしかしたら加藤家の改易後は細川家が熊本城城主になってくれないかな?と思ってたのかもしれないですね

そんな気がとてもします

 

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