私の好きなお城に熊本城というのがありまして、虎退治で名高い加藤清正公が建てた天下の名城
ちなみに虎退治は槍ではなく鉄砲だそうです
どれくらい好きかというと、おらが町の名古屋城よりも好きなのです
私、徳川系のいわゆる白いお城よりも豊臣系の黒いお城が好きなのです
老い、くまモン、邪魔だYO!!ミニ四駆のドライバーにもなってやがる!!
何がいいって白い瓦と黒いお城のコントラストが素敵じゃないっすか!!
カッコいい!!技術的、性能的には名古屋城の青っぽい鉛の瓦のほうが上らしいですが見た目がすべて
さてこの熊本城には昭君之間というとっても格式の高いお部屋がありまして
昔から実はどえらいえらい方を迎え入れるために作ったんじゃなかろか??と言われておりました
とうぜんい伝えて気に伝わってるだけで文献には残ってませんが
まあ、豪華絢爛!!
豪華絢爛と言えばおらが村の名古屋城の本丸御殿
こっちも再建住んだので見に行かねば!!
おおお!!さすが御三家筆頭 これまた豪華絢爛
熊本城よりもお金かかってそう!!
ですがセンス的には熊本城のほうがおしゃれっすな
実は清正が秀頼公をお迎えするための間と言われてたりなのです
お迎えと行っても旅行気分で~ではなく大阪城から熊本城に移っていただいて安全に生活していただく
そんな思惑
とうぜん徳川の世となったのでそんな資料は残すはずがない
文字として残してたら、発覚したら加藤家お取り潰しですから
万一書面に残してても、普通に処分しますって
現代だってまずい公的文書は処分しますから ねえ、安倍さん!!
学者さんは資料原理主義なので資料に残ってないことはなかったこととしますが、今の時代だってまずい資料は隠ぺいするのですから
さて私も以前は秀頼公をお迎えして過ごしていただくための間と思ってましたが
最近はちょっと違うのかも?と思ったりもです
理想としては徳川の世になっても秀頼公に安全に過ごしていただくですが
多分幾多の戦いを潜り抜けてきたリアリスト清正にしたら
もっと現実的だった気がするのです
天下の名城熊本城を枕に、天下人の威厳を持ったままう華々しく討ち死に!!
それも頭にあったと思うのです
朝鮮出兵なんかで新しい戦術の戦いにおいての古いお城の限界というのを実は清正は知ったんじゃないかと思うのです
ドエライ攻城戦なんかを経験してるじゃないっすか この方
大阪城を作り始めたのが1583年で、私的には計画自体は信長だったと思うので実質は1580年くらいじゃないかと思うのです
関ヶ原から20年前なんですよね ほぼほぼ
熊本城が1601年完成
ちなみに大阪の陣が1615年で30年近く前のお城で実は結構古いじゃないっすか
その間、戦は圧倒的に進化してるじゃないっすか
秀吉時代にはなかった西洋の大砲なんか登場して、
冬の陣なんかはその大砲からぶっ放された砲弾で淀殿の近くが被弾
淀殿ビビってすぐ講和じゃないっすか
秀吉の中ではそんな天守まで届く大砲の出現というのは想定外だったのです
そのあたりも踏まえて築城の名人加藤清正が、作ったのが熊本城
実際、270年後の西南戦争で、最新の西洋式軍備の西郷どん率いる当時最強と呼ばれた薩摩兵たちでも落とせなかったくらいのお城ですから
そこを、熊本城を作った清正が守ったら
誰よりも熊本城のストロングポイントと弱点を知り抜いた名将が指揮を取ったら、家康落とせたか??と思ったりなのです
大阪城にこもる以上に厄介じゃないっすか
大阪の陣のような浪人集の寄せ集めではなく朝鮮でもその名をはせた名将ですから
ただ戦国を生き抜いたリアリスト清正公なので
やはり最悪は城を枕に討ち死にという覚悟も当然持ってたと思うのです
どうせ死ぬなら後世に語り継がれるように華々しく散りたい
天下人として華々しい最期を遂げさせたいう想いもどこかにあった気はします
ま、最悪のケースとして
まずはそうならないように秀頼公が大阪城を出て、お国替えに従ってほしい それに従えないのであれば、最終決戦やむなし
そんな感じだったかも
ちなみに戦国時代のIFで いろいろも思考だったらと思うことありますが(関ヶ原の時上杉軍が徳川に追撃戦を仕掛けてたらとか)
私的には熊本城に秀頼公を迎えて籠城したら家康は落とせたか??
なんですね