さてまたまた織田信長さん
この方新たな信仰の対象となろうとしてたと書いたでしょ?
歴史の学者さんなんかは精神的にいっちゃってるんじゃないか?
新興宗教の教祖的にって言われる方もいますが
でちょっと脱線
信仰の対象について新興宗教の教祖様や霊能者、
占いしサンなんかで自分が信仰の対象となってる方
もしくはなりたい方いるじゃないですか?
そんな方はだめに決まってます
人が信仰の対象っておかしいでしょ?
教祖を拝み奉るっておかしいでしょ?そこは本来神仏であったりで
弘法様だって 本来の対象は大日様なわけじゃないですか
もしくはその人ではなく教えが信仰の対称になるべきで
カリスマと呼ばれる方たち
教祖さんとかね
やはり何かしら強烈な 魅力やらがあってその人自身を信徒さんや周りが拝み奉っちゃうと思うんです
そこでいい気になってその気になる方はだめですよね
本来だったらいえいえ、私ではなくご本尊様を~というべきなのです
師僧のいつも言われるご本尊より前に出てはいけないというね
さて話し戻ります
なぜに織田信長はあえて新たな信仰の対象と
なろうとしたか?
実はこの人の革新性ってここにメッチャ表れてる気が
まず一つ目
よく言われるようにこの国の天皇
これをどうにかして
それを超える存在になろうとしてた
これは確かです
官位をすぐに返上したじゃないですか?
それを見て公家衆はざわつきましたよね
官位を返上しなければ結局朝廷に組み込まれるわけじゃないですか?
どっかで書いた足利義満
この方天皇を超えようとしました
そうするとこの国は必ず何かの力が働き殺されるのです
私もこの方毒殺と感じます
信長は?ですよね
足利義昭を追放したとき朝廷は本気でまずい
この男は本気だ!!と思ったと思うのです
次は帝だって
そういう学説もあるし 明智光秀なんか絶対そう思いましたよね?
私 実は違う気が
ヒントは一向一揆なんです
信長が超えようとしたものって天皇と阿弥陀様という信仰の対象物なんだと思います
阿弥陀様に代わる信仰の対象に自分がなれば一向一揆と言うものが
理屈的にはなくなる
そんな感覚です
聖戦と言う名のもとに亡くなれば即阿弥陀様のもとに行けるぞ
逆に戦いに参加しなければ死後も阿弥陀様のもとには行けない
そんな理論武装で一向宗を戦わせたわけじゃないっすか
浄土真宗のトップは
なので一向宗は死をも恐れないとういう
当時は乱世で生きてる間の幸せなんか皆諦めてた時代っすからね
特に農民や庶民なんかは
そこで信長はだったらわしを信仰すれば現生で幸せにしてやるぞ
その証拠に楽一楽座や関所撤廃して、経済をよくしてなおかつ
治安だって維持に努めただろ
庶民どもは生活良くなっただろ 阿弥陀ではなくわしを信仰すれば生きてる間に幸せになれるぞ~
そんな理論武装だったと思うのです
そう考えると案土城をライトアップさせ、信長にたいしてお賽銭を奉納させたのも納得できます
本当に神になったと思ってるわけでなく、便宜上神として振舞うほうが国を統治できる
そんな感じで信長さんは冷静だったと思うのです