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太閤秀吉は最後まで信長の幻影におびえ続けた

政宗さんと太閤さんのやり取りリーディングしてたら急に場面が変わって

太閤さんが朝鮮出兵時の病床の布団の中で仰向けで両手を天にあげながらある言葉をつぶやいてたのです

このころは言われるようにまだらボケ状態、認知症ですが認知状態と正常状態を繰り返しながらで

正常時なのですが

なんとその言葉が、、信長公、なぜあなたは示してくれなかったのですか、だったのですです

言い回しはちょっと違うかもですがそんな内容をつぶやいてるのです

はい

結構深いですな、この言葉

この方ですね

特に信長死後は独創性はなくただ信長が生前のプランを
実行していただけなのです

ま、サルが猿真似と言いますか

大阪に本拠地を移し大阪城築城、大阪城の設計図まで信長が作ってたの思っています

 

そうじゃなければ天下を完全に手中にしてない段階で大阪城築城取り掛かれないですし、逆算したって、設計図や大阪城の縄張りなんか、信長存命中から始めてないと無理っしょ

 

しかも空前絶後の規模じゃないっすか

天守の壮麗さ以外にも総構えの規模にしても

そんな1年やそこらのプランで始められるもんじゃないっしょ
私の感覚では信長さん唐入りまではプランとして親しいものには告げていたと思うのです

なので秀吉さんも天皇を唐に移すくらいのプランは言えたと思うのです

 

結局秀吉の後半生というのは、信長のプランをなぞってただけの人生だったとも思えるのです

朝鮮出兵~までが信長のリアルに思い描いてたプランでして

そこまでなぞったら秀吉公も寿命でお終い

 

そんな人生だったのかも 天下人にはなったものの、結局は信長公の草履取りと言う関係性を抜け出せなかったのかもですな

と書いてるうちにふとあることが浮かんだのです

 

実は信長は天皇は唐に移す気はなかったんじゃないか?日本にいさせたままで、日本と言う国の領土を増やすことによって天皇の地位を下げようとしたのかも?

それこそ明国(中国)まで日本にして、天皇は元の日本のトップとして

私はそれらも含めた新しい領地も含めた日本のトップとして

そんな感じだったかもしれないですな~

 

ま、現実的な信長の場合は貿易港や拠点を押さえていくという方法だったと思うのです

そして、中国の貿易港を手に入れて、そこを中心にヨーロッパなんかと貿易を行っていったんじゃないっすかね~

 

ちなみに足利義満の時代から、実は海外貿易ってめっちゃ儲けれたのです

それこそ明治維新の頃だって、薩摩があれだけの大借金を返済してなおかつ豊かなお国にできたのも、琉球を使ってこっそり密貿易を行っていたからなのです

子供のころから尾張を代表する津島と言う交易で莫大な富を作ってた都市で遊んでた信長ですから

普通に考えればそうしたでしょう

もしかして秀吉も明国を征服して天皇を唐に移すなんてことを考えずに

信長方式をそのまままねてれば

ボケたりしなかったのかも

秀吉はもしかして最晩年に信長を越えようとしたのかもですね

信長公でさえなしえなかった、考えもできなかった明国をわしが征服してやるのだって

 

 

 

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