さて世の中には行というものがありまして
修験で山に入ったり堂に籠ってなんかやったり滝に打たれたり
云々といろいろあります
それやってですね いきなり霊や神仏が見えちゃったり云々って
あんまないと思うのです
では意味はないのか?というとそこはあると思うのです
色んな意味が
でですね 私がふと山で思ったことがありまして
神仏の世界って視えない世界じゃないですか
基本的に 祈祷やら呪術なんかも
見えない世界に効かせるのって視えないことをやらないと効かないんじゃないかな~
視えない世界に視える世界から働きかけるのも大事ですが
視えない世界だからこそ視えない事を行としてやるのが
そこに効くというか
まあうまい事言えないのですが なんかそんな感じなんです
修験でしんどい思いで山を歩いても神仏と感応できない
霊だって不思議だっておこらない
それでいいんじゃないっすかね~って
視えないことを行としてやるというのも大事ですからね~って
ま、いまいち何言ってるのか分かんないかもしれないですが
ははは
多分なんですが 神仏って視えないじゃないですか
視えてたとしてもそのごくごく一部じゃないですか
本当は
その視えないもの確証を持てないものをやっぱ神仏っているよね~と
確信するために行って必要なのかもな~っと思ったり
そこに確信持てない限り祈祷やらそういうのって中々効かない気がするのです
何故ってお互いの信頼関係で成り立つ世界(だと思う)から
これ依頼者と祈祷する人以外にも 対神仏に対してもだと思うのです
視えない世界って基本お互いの信頼関係で成り立つものだと思うのです
あとはいわゆる場の力
ブッディストであるわたくしが 例えば知識もそこまでの信頼も信仰も持っていないキリスト教の世界観の祈祷やルルドの泉なんかにいっても
そこまで効かない気がするのです
もしかして何かしら効果があるかもですが 多分その効果って本来の効果からかなり半減してる気がします
なので私は天使~やらってあんま興味がないのです
(あくまでも私はないということで皆さんに効果あるかは知りません)
何故ってキリスト教の世界観をあんま知らんし天使という存在自体に興味がないからなんですね~
でですね その信頼関係の最も深い姿がやはり信仰という姿になるんじゃないっすかね~
本来はそこにいかないかぎり その宗教的な祈祷やらって本来の効果は出にくいんじゃないかな~とも思ったりなのです
ま、日本は宗教アレルギーというのがあるので信仰となると
皆さん躊躇しちゃうと思いますが
ただ本来はそういうせかいじゃないかな~って
ま、逆に言うと信仰って自分で決めるべきものなので
勧誘したり云々はどうよ~とは思いますが はい
多分本来は説法なんかはしても 勧誘はせずに
その話聞いて興味持った人だけどうぞ~ そんな世界なのかもですね
うちにぜひ入って下さいという世界ではないのかも