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人間社会との接点がある限り何とかなるのです

さて先日ご先祖様にお経お上げしてたら亡くなった叔父が現れたのです

ちなみにその前日は母方の祖母が母の夢に現れなんか言いたげだったそうで

おばあさん何が言いたかったんだろうね~と電話があったので

 

そりゃあそろそろ墓参りに来てくれ!!に決まってるわ!!

いつものように牡丹餅持って行けよと伝えておきました

 

さてそのおじですが以前も書きましたが青年期に事故にあってそのご下半身不随で

車いす生活になった方でした

 

な~に言うのかな~と思っていたらですね

障害があっても人間その代わりの機能というものが備わってるから

諦めてはいかんよ

補える能力というのが必ず備わっている

 

希望はなくしちゃいかん

絶望してもいいけどすぐに希望の光を探しに行かないとあかんよ

 

そんなことを言ってました

 

たしかに障害を持ったお子さん、はたまたご自身が障害を持っていたりすると

やはり我々健常者にはわからない辛さってあると思うのです

 

でですね 思ったことがありまして

補える能力といいますと 普通は手が動かないなら手の代わりになるもの

例えば足であったりそういう肉体面での能力だけと思うじゃないですか

 

じつはそれだけの話じゃないなと思ったのです

障害でなく寝たきりのお年寄りなんかの場合を例にすると

 

野生でいえばその時点で死じゃないですか?

ただ人間社会って介護してもらったりで生きてるじゃないですか

 

これって自分が動けなくてもお世話をしてもらえる補える能力

お子さんに障害があったとして 親御さんがその子のために必死で生きるすべを

見つけようとするのだって補える能力

 

それら全部ひっくるめて実は補える能力なんです

そう考えたら人間って社会生活、社会との接点さえ持っている限り

障害を補える能力って持っている

 

希望の光はそこにあると思うのです

人間って生まれ持って善か悪かはわかりませんが

少なくとも善の部分は多少は持ってる

 

困った人がいたら実際助けるかどうかは別問題ですが

助けたいなとは思う そこまで思わなくても可哀そうだな~くらいは思う

 

電車に乗ってって見るからに弱ってるお年寄り見たら席かわる

かりに変わんなくても

席を変わらない自分がな~んかどっかで後ろめたい気分になる

 

それって共通の意識だと思うのです

そう考えると社会との接点がある限り どっかで誰かが補ってくれる可能性は

高いと思う

わたしですら障害のある方が身近にいたら大したことは出来ないけど

すこしはお役に立てたらと思いますから

 

そう考えると親御さんの大事なことの一つって

いかに子供と社会との接点を持たせるかなのかもしれない

 

それが実は大きな可能性や希望に変わるのかもしれないな~と思ったりします

ま、いうのはかんたんなんですが

 

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