伊藤みみかさんの
スピ散歩伊勢を読んでます といってもまだ10Pくらい。
ま、いつの話だよって ははは
ですが、あ、ここまで書いたんだなあ?と思ったのでならいっかと思って書きますね
伊勢神宮に人柱てきな生贄してるって書いてあったので。
そのあたりを。
ははは
ちなみに 人柱というか人畜といいますか 実はそういう話を伺ってたりするのですが
それは内緒の内緒
聖ってね、絶対じゃなくて相対なものなの。邪があって聖が存在するわけ。
こっからは術のお話にもなるんだけど。
ただひたすら聖なる場所を作ろうとしてもそれは続いては行かないものなの。
(聖として認識が薄れる)。
なぜかといいますと。たとえば聖=速さと考えるの。150キロの球、速いでしょ?
でもそれを全て投げたら打たれるでしょ?
目が慣れるもん。でも150キロは本とは速いでしょ?
物理的な速さとは別の速さのベクトルがあるの。
でこの世はその別の速さの方が効果はあるわけ。
じゃ、どうするかというと遅い球や変化球を効果的にまぜるの。
そうすると体感が160キロにも感じるの。
それは武や踊りもそうなの。ただ速くではなく遅い動きと速い動きがあって効果的になの。
なので聖なる場を作るときは基本周りや中のどこかに邪をつくるの。
それも凄く強い邪を。その差が聖を際立たせるわけ。
ヒンドゥーやブードゥーの神なんか血を好んだりするのもそういうわけ。
血=穢れだから。
日本でも天皇(聖の象徴)と鬼の子孫と称する八瀬の童子がつながってたり(天皇の棺を担ぐ)、
川筋や、道のものと呼ばれる漂白の民がつながってるじゃん。
彼らって人間の世界で言えばかんぜんな穢れの象徴のようなものでしょ?(スイマセン、差別的
ですが、本人達はそれを誇りとしてるので)
それって普通はありえないじゃないですか?
この辺り詳しくは民俗学の本読んでね。
じゃあ、日本の神社や聖地は全部人間を貢物にしてたの?と思うでしょ?
基本そうだがそうじゃないともなの。
これは私の感覚ね。
日本って縄文人と弥生人が混在してた時期あるでしょ?
サクッというと縄文=狩猟で血をいとわない、弥生=農耕で血のけがれを嫌う。
縄文的な聖地は血のけがれを持って聖として弥生的な聖地は血の代わりのもの(たとえば
魚やコメ、直接の血といういめーじはないでしょ)
もしくはそこに舞いというものも入るのかも。昔の白拍子とかって今の遊女的な側面もあって
俗であるし巫女なんかもじゃん 神聖な場所に俗の極みのものが踊りを奉納するという。
ただ聖なるものをおくと最初はなんて聖なんだと思うがなれてくるとそれは普通のもの。
邪なるものの横に聖なるものをおくと聖が際立って邪がある限り聖は恒久的に認識されるってわけ。
それを具体的に術に織り込むとながくその術が続くわけ。結構深いでしょ?
私の術って。笑
たとえば結構効果的な除しりょくアップなんかだと、ただひたすら女子力を入れるのではないの。
ローズ、ストロベリーでじょしりょくあっぷですよ~は普通じゃん。
そこに実は男性的なものをホンのちょっと織り込むと際立って続くの。
たとえばクンツアに強さやスパーんと斬っちゃうものやらを少し(結構かも)
入れ込んじゃったりとかさ
ま、企業秘密なんだけど、別にそこに皆さん入れ込めないと思うからね 笑
なのでいつも言うでしょ?
ブレス大事なのはバランスって。
どんな石使うよりも全体のバランスって。