さて最近気になってるお話がありまして
皆さん大好きな業のお話なのです はい
あんたの家系がよくないのは先祖の業~の業なのです
でですね よくいる占ババアなんかが業が~とか言ってその業の解消で大金よこせ的なの有るじゃないですか?
何処まで業について知ってる?考えてる?と思うのです
なぜかというと私 業について疑問がいっぱい杉でよくわからんのです
一番の疑問がですね(業はあるという立場です わたしも)
価値観や正義といったものって時代や民族によって変わる流動的なものじゃないですか?
さて業の発生のメカニズムとそれらってどういう感じ~なのです
よくある先祖が武家で人をたくさん斬ったから子孫が業をもって
~とか言う話 確かにあります
うちも親戚もあるし
さて疑問
戦国期の価値観だと戦で人を殺すのって罪ではないじゃないですか?
日中戦争時だって
例えば織田信長や徳川家康だって直接は殺してないけどb
部下やら間接的に考えれば何十万という人間の殺害に関わってるというか指令してるようなものでしょ?
ですがそこに天下を統一して戦のない世の中を作るという大義があり
それを実現しました さてそれは悪でしょうか?
当時の価値観では正しいと思うのです
幕府の処刑人人斬り山田浅右衛門さん(世襲制)
ここだって何千、何万人を斬ってる
当時の価値観だと必要で悪いことではないですよね
さて次代が変わって現代の価値観でいえば人一人殺したって罪じゃないですか?
どんな理由であれ(基本は)
そういう場合の業ってどうなんですかね?と思う
当時の価値観では業は発生しないけど時代が変わり価値観が変容し
戦で人斬ってたらやっぱ業になるよね~となった時点で業として発生するのか?
もしくは当時の価値観でいえば業となっていないから業の種子になっていないから実は発生しないのか
もしくは当時の価値観でも実は業となっていたのか?
どうなんすかね~?と
また業と怨霊といった恨みを一緒にしてたりも
信長が本能寺で非業の死を遂げたのは多くの人を殺した業という方もいるし
私なんかは実は業でなく生きてる人間の怨み(そこに死んだ人間の恨みが乗ったかも?)なんじゃないかと思うのです
(帝黒幕説ではないですから 私は光秀の単独説、しかも突発的に切れちゃった、我慢の限界説)
これ今ですと 尊厳死やら脳死判定なんかも業になるのか?と気になる
たとえば現状の倫理観で尊厳死を認めますと判決下して
それを実行したお医者さんやら家族って
なんか業になりそうな感じしません?
でですね
100年くらいのちの世になって 尊厳死や脳死判定やらが当たり前の世の中になったとしたら
さて100年前に実行してその時業となったものは消滅するのか?よ思ったり
戦国時代の人斬った業が時代の変化でどんな理由があっても人を殺したらあかんという価値観になって初めて業となるとしたら
逆も然りと思ったり
そのあたり凄く知りたいし 逆に言うとそこまで考えが及ばない人に
それは先祖の業ですとか 業を解消しますとか正直言ってほしくはない
だってあんた業についてちっとも知らないじゃんと思う
本当のことは知らなくたってそこまで考えが及ばないなんて薄っぺらい人じゃん
そんな人がえらそうな講釈垂れるなよと内心思ってたりする
それで運十万とっていいのか?プロとしてありえなくないのか?と
ま、もしかしたら業のメカニズムってもっと違うメカニズムかもしれないんだけどね
時代やら価値観やら関係なく行き物を殺めたらすべて業になりますかもしれない
だから人間は過去、現在、未来で考えが及ばないくらいの奥の業を犯してきたんだぞという立場がぶっきょうなのかもとか
ぶっきょうなのかもとかさてだとしたらね
さてだとしたらそこに情状酌量の余地はあるのか?
老々介護で泣く泣く奥さんを殺しちゃった人も快楽目的殺人も同じ量の業なのか?とかも思う
もし情状酌量があるとしたら そこにはやはり時代の価値観というものも量刑にはえいきょうがあるのか?と
だとしたら戦国期の戦での人殺しはそこまでの罪ではなくその時の価値観の量刑の業としたら
時代が変わっても判決は変らずにそこまで子孫に影響はないのか?そのあたりも興味ありです
いやいや 分からんことばかりですな