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伊賀、甲賀、忍びや楠正成を霊的に視ると なかなか興味深いです

さて過去記事です 忍者やらをリーディング

まず近江、大和と言った土地は古来から忍びの術、修験、陰陽が盛んで当然それらは当時の最先端技術として使われており交流も盛んです。(密教は修験と関係が深いが実は大本の技術は門外不出で交わらせなかったと感じます。)

忍者の印は元々は古神道の印から来てて身固めやらで使ってたりもしてます。
ただ私の感覚で言うと身固めは人間と言うよりも後ろのものや見えないものに対して使っていてしかもそれは戦国以前の修験の流れから来て使ってた気がします。

戦国期は正直混沌としすぎてしかも実用してたりもしそうで正直何処にフォーカスしてさぐればいいか分からないので霊視できません。


現場で使うには面倒が多すぎ(現場だったら槍や弓で殺したほうが早いし、呪詛はこの頃は密教僧を多く使ってますね。)

たぶんこの頃の印は一種の暗号的に使ってた間はあります。
どこかのミッションで同職の忍びやらと遭遇したときに敵、味方、自分がどの系統でどの地位かを表す物としても使ってます。


(これはたぶん余り語られてないが自身を持って断言します。
その光景が今目の前に見えてますから。

町人やらに扮した忍びが同じ格好をした他国の忍びとであってある種の感で同じ者と分かり、周りの者に自分たちの正体がばれないように、
且つ相手には敵か味方か分かるように印を結んでます。


これはたぶんトップシークレットとして絶対表に出せない印の意味合いなので今まで表に出さなかったんでしょう。)

ただ江戸期というか服部家の傘下で統制されて以降は基本術として使えなくなってます。
服部半蔵さん自体(たぶん初代)が実は術は使えない人手武士階級なので配下にしたときにやはり得体の知れない術は基本禁じていたのだと思います。


(これは権力を持った自分の配下が得体の知れない術を使うと怖いじゃないですか)。

配下の伊賀、甲賀の物の統制を取るために術の力をうしなわさせてます。


罰則もしたのでは?この服部さんは前述の印の意味は知りません。
2代目の服部さんは伊賀、甲賀の者の気質を最後まで理解できずに造反されてる気が。

一番忍者と言うか正式の武士階級ではないものたちが術として使ったのは南北朝期だと思われます。


鎌倉末期辺りから前述した者たちの交流が盛んになり花開いたのがやはり南北朝期。

 楠木正成の千早城なんかは呪詛としての忍術を使いまくってます。
この背景としてはこの時代と平安中期から末期、大正期が日本でもっとも幽界の影響が大きかったからだと思います。

 千早城では九頭竜川上流の天狗と呼ばれる精霊なんか(有名なあの神社のね)かなり協力してます。(特に東国、北陸の豪族たちの情報や寝返り、また呪詛暗殺に)。
たぶん調べれば長野辺りの寺社や豪族が協力していたはずです。

 前置きがずいぶん長くなったが呪術を使えた頃の忍者の印は元々古神道の使ってた印を
修験道がより簡素にしかも現実的に使いやすくした呪詛の技術のためのものです。
服部家配下ごは印を結ぶことによって

精神集中とリラックス効果で最大のパフォーマンスを出来るための当時のスポーツ医学の最先端の技術ですかね。

 では術に使うための印の意味と効用ですがこれは長くなるのでまた次回です。
これは私の実際の感想等も含め修験、古神道、陰陽、密教、それぞれが位置づけ、
方法が似て非なるものでそれぞれの成り立ちを表してそうでじつは面白いです。

また何かリーディングやら気になることがあればコメントいただけば分かる範囲で答えるかも?です。

何分古い記事なのでちょっと今の私の感覚とずれはありますが

ま、こんな感じ ははは

 

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