この時期霊能者にこう言われた~ こういうもの視たけど霊ですか??
云々という質問がとっても多いので私なりの霊についてのお話DEATH
私の中で、実は視えてないだろ??霊能ないだろ?という
霊能者(以外も)って結構断言系とか視えてる風な言い方をする方が
結構いる
逆に私の知り合いの霊能あるな~とか視えるよね~という方の多くは
断言ってあんましない
こういう風に視えるけど~ 心当たりある?とか
そんな感じで伝える方が多い
私なんかの感覚で言えば、本当の意味で霊能がある人って
あくまでも私にはこういう風に視えるけど、違う人が見たら違う風に視えるかもな~と思ってる場合が多い
私的には本当は霊なんか実態がないのだから(肉体がない)
あくまでもその人にとって視やすい形に脳内変換された姿が見えるものだと思ってるのです
もしくは霊や神仏といったものが姿を見せようとしてるとすれば
その人にとってイメージしやすい、視やすい姿であらわすと思ってるので
断言というのは結構危険だよな~とマジで思うのです
あくまでもその人にとっての現実というだけで
もひとつと~っても思うのが、お馬鹿さんなことを言う人ってやっぱり見えていないのだと思う
霊能者さんなんかでよくいるのですが
あんたが言ってることって社会常識や歴史の常識で考えれば
ありえんぞ??おかしいぞ言ってることが!!というタイプ
相談なんか受け取るとこの手の霊能者さんとっても多い
(特に女性霊能者さんに)
それ本当にそう見えてたり感じてたりするなら統失じゃないか??
そんなレベルが
この世界には霊的フィールドというものがあり
そこに即したものがやはり働きやすい
日本というフィールドであれば日本の神仏や先祖霊
海外であればその地域や宗教観のフィールドに即した霊的存在
なかには日本でも海外の霊的存在が動く方もいますが
やはり縁がある人なんですよね~ あくまでも
もひとつ重要なことは霊は嘘をつくということ
日本的な表現を使えばキツネやタヌキが神様に姿を変えて化かす的な
もっとひどいものになると化かしてひどい目に会うのを見て喜ぶ存在というものもやはり存在する
最初は神仏や指導霊のような感じで接してきて
その存在のお告げが当たっていたり
言うとおりにするととても良いことが起きる
なのでそれを信じて行動すると成功したりするも
頂点で真っ逆さまに落とされる
そういうことって多々ある(何人も相談者でいたりもした)
私なんかもその手の言葉って何度も聞いたりしましたが
その手の末路を何人も見てるので
社会常識や自分の置かれた立場や能力等と相談して話には絶対乗らないんですね~
何度も書いてますが視える、聞こえるという判断が必要になるものは基本信じない
分かるという感覚のもの以外は基本スルーなのです
皆さん、視える、聞こえるということに振り回され過ぎだと思うのです
皆さん様々な修行や瞑想で視える、聞こえるという能力を開眼しようとしますが
分かるという感覚を磨いた方が断然いいと思うのです
本業であるコンサルなんかでよく言うのが
顔見りゃわかるじゃん~というお話
人間顔見れば成功するのかしないのか
信用できるのかできんのか 賢いのかどうかって大抵わかるのです
視える聞こえるという能力を開眼するベクトルと
分かるという感覚を開眼するベクトルって私的にはちょっと違うと思ってるのです
前者は瞑想やら修行云々で開くものかもですが
後者って結局境涯を上げていくことによってなのだと思うのです
境涯が上がっていけばいろんなことが分かってくる 多分その中の一つなんだと思うのです
境涯を上げるには自分中心の視点から他者中心の視点ということが
とっても大事
私にとってはこれが正義で絶対!!これは曲げれんというよりも
それをすることによって他人様や世間はどう思うのか
周りがいや~な思いをしないためにはどういう立ち振る舞いが大事なのか
まずはこれがとっても大事なんだと思う
それプラス学問にはげんで生きた知識を手に入れることや
人様や社会にええことをして陰徳を積む
そういうことが大事なんだと思うのですね~
たいそうなことを書いてますがあくまでも自分ができる範囲からすればいいだけでそんな難しいことでもない
お釈迦様やイエス様のような立派な方と比べて全然できてないと落ち込む必要は全くなくて
比較対象はあくまでも過去の私
去年より年寄りに席譲る回数が1度でも置ければ立派なことだし
家庭や職場で毎日切れ散らかしてたのを三日に一度にするだけでも
大幅な進歩
無理せずやってきゃいいのです