瞑想なんかをする時に、神仏は自分の内か外か
どういうイメージをするか
そんな問題に出くわす
(気がする、実は瞑想は全くしないのでにわか知識でスマン)
内なる仏やインナーチャイルド、アートマンなんかを具体的にイメージで来たり、視覚化なんかできると多分うれしいのだと思うのです
何となくですが、神は自分の内側にいる~という表現をよく気がするので
最近私が思うのが、内なる神、内なる仏というよりも
内なる仏性と言うものが大事なのだと思うのです
仏さまの姿をありありとイメージするよりも
密教の仏様のように、そのお姿をありありとイメージして
その持ちものなんかに込められてる意味まで意識してなおかつ
意識に落とし込めるレベルの方はそれでいいのだと思いますが
我々ボンクラは中々難しそう
(たとえば如意輪様が我が家の禁止事項である頬杖ついてるのは
衆生をどう救おうかと思案してる姿なので、その姿を意識しながら
衆生を救うにはと落とし込めれば)
内なる仏というよりも、内なる仏性、さらに言えば
仏の境涯になる(というより立つかも)ということがとっても重要なんじゃないかと思うのです
瞑想云々の目的なんかでも
うわわわわ~い、瞑想中に金色に輝く光に包まれて、仏様に会いました~
そんな宗教体験や不思議体験が目的ではなく、自分の境涯を上げることが
重要ですね~ 多分
多分仏様の境涯と言うものを想像すると
困った人は助けたいよね~ 人の上げ足とったり、足引っ張たりなんて
考えないよね~
嫉妬には狂わないだろうし、悪口大会には加わらないだろうな~(多分)
それくらいの想像は出来るじゃないっすか
だったら自分がその境涯に行けばいい、意識をすればよいのです
所詮人間だもの、四六時中そんな素晴らしい境涯で入れるわけではないけど
瞑想の時間の間だけでもその境涯に入っていれば瞑想と言うものだって
悪くない
段々とその境涯が意識に落とし込まれて行って、私のような真人間になれちゃうのならとってもありがたい
多分神や仏の境涯を意識していくと、だんだんそれも上がっていくと思うのです
始めは思うだけだったのが、なんだか行動に移しちゃうようになった
ジミヘンさんのように、重い荷物を持ったお年寄りをおんぶして
山のてっぺんまで登って行っちゃった(姥捨て山)
そんな善行だって積むようになるかもしれない(当然本気にするなよ)
神社や仏閣に行って熱心に祈願したりするのもいいですが
日々神仏様の御心と言うものを意識しながら生きていくことが
一番神仏様がお喜びになられることではないかな~と思う今日この頃
お心といっても、お前はこうしなさい云々と言うそんな小さな話ではなく
神仏様はどんなお気持ちで日々お過ごしになってるのかな~
どんな請願を立てられて我々をも守ってるのかな~という
神仏様側の気持ちに立つということが重要です(多分)