祭文と言うものがある
先日の呪詛返しなんかも基本は祭文を唱えるだけなのですが
陰陽道なんかは祭文の宗教(宗教と呼ぶかは微妙ですが)と呼ばれるくらい
祭文が多い
修験や密教なんかも祭文は当然あるし、神道なんかは祝詞と言う形なのかもしれない
内容と言うと、大抵は整合性が全く取れていないような
現代風に言えば荒唐無稽なものが多い(たぶんほぼほぼ)
神や仏や鬼神、夜叉の類まで出てくる中世の一大スペクタルと言う世界観
(ですが荒唐無稽な内容)
やはりそう考えると神も仏も鬼神夜叉の類も一緒の世界観で~というのは
日本の庶民に至るまでの宗教観は神仏習合なんだと思う
さてそんな祭文なのですが、基本は声に出して唱えればきくというものですが(ま、陰陽道なんかは幣を切ったり云々はありますが)
じゃ、だれでも唱えれば効くものかと言えば当然そうではない
前提として地力のある人が唱えれば効くというもの
そのために皆様昔から山入ったり堂にこもったり云々と言う行をして
地力をつけた
神道なんかは言霊を出すための~という言い方をよく目にする
ま、地力のない祭文なんかは、フルコン空手で蹴りの形だけ教わるようなもので、相手に利かすには当然基礎体力と言うものが必要なのです
密教なんかはひたすら数をこなす行体系なのですが
やはりまずは拝みの地力をつけなあかんと言うのは当然ある
さて地力をつけるために何度も何度も何度も何度も唱えて実戦をしていくと
これが当然の如く様々な境地と言うものに達する(と言うほど偉そうではないが)
祭文って基本読むだけであってこういう感想をしなさい云々と言う注釈はない
あくまで文章があってそれを読む
実はそれがかなり重要なんだろうな~と思うのです
例えばクライアントと対峙する憑き物落し
唱える祭文や真言をどこに向かって唱えるかと言うマニュアルがない状態
憑いてる相手なのか憑き物なのか、はたまた祭文なんかに書かれている
神様や仏様に対して唱えてなのか
正解はどこにも書いていない
結局行う行者さんの境涯次第でもある
これは中々興味深い
この手のものって唱えれば唱えるほど、やればやるほど
境涯と言うものは変わっていく
昨日までは、直接憑き物や未浄化霊に唱えて説得したり脅したりして
去ってもらうものかな~と思ってたら
なんだか今日はやっぱ神仏にひたすら届けて神仏に落としてもらうものだよな~
明日になれば、実は憑き物云々ってある意味自分の無意識が呼び込んでいて
それがある限りはなれないし、離れてもまたほかのものが憑くから
クライアントの無意識の領域だよな~となるかもしれない
もっと熟練してくれば、そんなの全部大事に決まってるじゃん
状況によってそれらを使い分けるにきまってるっしょ~
多分境涯や、熟練度によって同じ祭文でも使い方が変わっていくものだと思うのです
すんごい武器にもなれば単なる紙切れにもなる
そう考えると、祭文一つにしてもとても面白い
達人と呼ばれる空手家なんかが、拳の握り方を生涯かけて試行錯誤していく
そんな感じで生涯をかけてその祭文に向き合うということだって当然できる
先日は蜂に特化した呪詛返しと言うものを教えていただきましたが
これがまたシンプル
逆に言えばシンプルだからこそ奥も深い
基本をきちんと押さえればどれだけでも応用がきくし
逆にひたすらそのシンプルなままで追及することだってできる
世のなか複雑な法や修法の方が上位と言う概念はありますが
(ま、それも正しいですが)
シンプルなものを突き詰めるのもありなのだと思うのです