さて現在実家ですが、実家は所謂戸建て
マンション暮らしが長い私は実家に帰るたびに思うことがある
戸建ては暑いし寒いし蚊も多いな~と
ま、逆に言うとマンションはそれだけ密閉性が高いということなので
湿気云々だけでなく霊的なものやよろしくない陰の気なんかも
籠りやすいのでしょう
陰の気や霊的なものってじめじめしたとこに集まりやすいですし
そんな感じで仏壇拝んだりしてたら思い出したことがあった
以前旧ブログに書いた気がしましたが私が幼少の頃のお話
いわゆる我が家の霊能開発メソッド
我が家は父方と祖母方がいわゆる民間の陰陽師というものを
やっていて、祖母の実家は村のいくつかある神社の宮司も兼任してる
(今でも)
なので苗字もそれっぽいお名前で自分のとこの神社も持ってっる
(神社という規模ではなく小さなお社レベルですが)
父の実家は所謂大庄屋も兼ねていて爺さんの代までは
あっちの山からこっちの山まであんたんとこの土地だったんだぞ~
そんな大地主でしたが祖父の代まで3代遊んで暮らし、最後は戦後の地租改正、小作開放政策で没落
父方と祖母方は霊的な血を薄めちゃいかんということで何代も親戚同士で結婚を行ってる家同士の関係という
中々香ばしい家なのです
そんな家なので当然代々やってきたことはやはりある
ちょっとした英才教育
一応民間の陰陽師(といっても拝み屋さん的な感じ)なので
大事なことはやはり視えることと分かること
当然視えるよりも分かる方が上位概念なのですが
陰陽道の場合(というか我が家)視えるものはそのまま視えたものとして扱うのです
基本は
陰陽師らしくこんな感じのものは残念ながら視えませんが
ははは
いつも霊は嘘をつくと書きますが、霊って嘘をつくんです
大抵は
力のあるよろしくないものなんかは姿を変えたりもすることが多々ある
人間ではなかったものが人の姿に変えたり
鬼云々に変えたりと
例えば狐やタヌキの類が鬼というものに化けて悪さをする場合は
鬼として扱う
そんな感じなので、やはり視えるということは大事だったのです
扱いとしては鬼としてですが、これは本当の鬼なのかうんうんという判断はいわゆるコメ占いで行っていた
我が家も祖母方も庄屋様なので、実はコメには困らなかったと言う関係もあったのでしょう
米が奇数か偶数かで判断する
憑き物も本当に取れたかどうかの判断は本来コメ占いを使うらしいですが
結局皆様、視て取れてたら取れてるということにしてたのが現実ですが
(ただまたつくかどうかという判断には使ってたらしい)
そんな感じで視えるということはやはり重視してて
昔は、子供の頃に視えるかどうかということで、術の道に行くかどうか
決めてた、そんな時代もあったらしい(うろ覚え)
なので視るというトレーニングは結構やりました
我が家の場合、背中の後ろのなんかくと頭上の感覚というものも
とても重視をしていたのです
人間の視界って前方のせいぜい180度くらい
普段意識してないともしかしたら90度くらいかも
ついでに歩行云々の時って視線は進行方向のちょっと下なので
上ってあまり意識はしない
当然よろしくない霊や憑き物の類はそういった死角というとこを狙ってくる
そんな感じで背中の感覚を鍛えるということをちびっ子の頃やらされましたね~
そんな感じの霊視なんかの練習
まずはちびっ子の頃に水鏡ということをするのです
我が家は両親共働きなので当然私はおばあちゃん子
お風呂なんかも祖母と入ってましたが
お風呂にはいると必ず湯舟の中でたらいに水を張って
中をのぞかされる
たらいの水に映るものを視るという練習が始まるのです
うちの家系で昔からやってたことらしい
多分水鏡というのは代々霊的なものを扱ってる家なら
結構ポピュラーなんじゃないかと思います
水の中に浮かぶものが視えるようになると今度はお湯を張る
こちらはあんまやってる家は少ないかもなので
案外家伝的なもので口外しちゃいかんのかも
ですがうちも私には子供がいないので、私の代でおしまいなので
まあいいかということです
お湯はると湯煙が出る 何が浮かぶかをじっと視る
当然湯煙が必要なので、お風呂の窓は開けて風呂場の室温を下げる必要がありますが
ははは
ちなみに霊聴の力を開くときはこちらをします
湯煙に浮かぶ霊は結構話しかけたりしますから(水鏡は視えるだけだった気が)
その時、悪い霊が寄らないように祖母が真言なのか祝詞なのか
何かを唱えてた気がしますが
残念ながらちびっ子の頃なので全く覚えてません
ははは
ということで次回は背中の感覚を鍛えるお話DEATH