世の中には霊的修行というものがあるらしい
自称霊能者の方々なんかもプロフィールなんかで書かれてることもある
何か月とか1年とか積み増したみたいに
何やってたのかとても気になります(当然悪意を持って)
多分山はいったとか瞑想したとか滝に打たれたとかその手のことを言いたいのでしょうが
それらって結局単発な点じゃないっすか(瞑想は毎日かもですが
それを霊的修行と言うのかは知らんけど)
3年とかやったと言っても、都合何日?と思ったりします
さてそんな霊的修行(といういい方が私はお好きじゃない)
多分皆様のイメージだと霊能開化したりお告げ聴けたりと
何かを得るためというのが一般的ですよね??
私なんかが思うに、その手の修業の目的って、実は得るではなく
捨てていくのが目的なのかも?と思うのです
自分の様々な欲求やら悩み云々を捨てていく、手放していく
その結果霊的な存在と交流云々なんじゃないか??
もひとつすごく思うに、霊的修行というものって結局は自分の霊能力を開くというよりも、霊的な存在に動いてもらうことなんだと思うのです
神仏であったりいわゆる神霊や先祖霊、眷属なんかに
修行というとお寺さんなんかだとほぼほぼほぼほぼ掃除やら
様々な雑務
ついでに和尚さんたちの顔色を見ながら怒られながらというのが
昔からのスタイル
多分多くの方なんかはそれやってどうなるの?お寺が楽するだけじゃん
そう思われる方が多いと思うのです(現代っ子気質)
所謂下座行といわれるものですが
結局はそれらをどんな心持でできるか、それがとっても大事
確かに草むしったり掃除したりって和尚さんやお寺さんが手が空いて~となりますが
それらって本当は仏様のためになんですよね
すべて
そういう日々の地味な積み重ねをどれだけできるか
結局神仏ってそれを見てる気がすごくするのです
神社でもお寺でも
昔からお寺なんかはいろいろお小言言われたりするとこじゃないですか
それも実はすごく大事で、最近は住職さんたちが逆に気を使ってる
そんな感じも多いようですが
住職さんの顔色や何考えてるかが分からんようでは神仏様の
お気持ちや祈願される方々の原因云々というものを感じ取れるわけはないのです
これ、会社なんかも同じで、営業さんが会社の先輩なんかに
いろいろ言われるのを凄く問題視じゃないっすか
昨今の風潮って
私なんかにしたら、社内の上司の顔色もうかがえなくて、営業先の
お客様の腹のなかがさぐれるのか?と思ったりなのです
それらって、やはり日々のトレーニングで磨かれるじゃないですか?
占い師さんや霊能者さんたちだって同じで
実社会でもまれてなかったら、お客さんの腹の中云々中々探れなくないか?(探れる方も当然いるけど)
山に行きました、滝に打たれました~というのは、私なんかにしたら
日々の地道な修行があってのイベントなんですよね~
結局日々の地道な~というのが霊的な存在が動いてくれる
土台になるわけでして、そこがないのってとってももろいと思うのです
どれだけお経や祝詞が上手でも、様々な術を知ってても
結局は霊的な存在が動いてくれるかどうかなんですよね
もひとつ大事なことは神仏というものに全て委ねれるか?なのです
それこそ人生すべてまで
ただこれは中々ね~ というのが本音です
ははは
そこまでできて初めて神仏を信じ切れる世界なのでしょう
ただその辺りはですね
24時間私の人生ゆだねますでなくても
行やってる最中、皆さん好きな瞑想してる最中
手を合わせてる最中だけでもいいと思うのです
その時間が少しずつ少しずつ増えていけばと思ったりです
ま、いわゆるお掃除なんかの下座行のない霊的な修行なんかは
正直修行と呼べないでしょうし
重しとなるいわゆる師という存在がなければこれまた中々
修業とは言えないかも
人間ってやはり口うるさかったり、顔色うかがっちゃう重しとなっていただける存在は大事なのです
スポーツの世界なんかでも、やはり一人では中々自分を追い込めないですからね~
これ位の方がいて、ようやく自分を追い込めて、常にリミッターを外すことができる精神状態になれるのでしょう
ちなみにこの方が初代タイガーマスクの佐山先生でして
本人曰く、相手のリミッターを外すために演じている
竹刀も実は割れ目を入れて音だけがでかく出るようにしてるそうです
確かに、この方のお弟子さんやそのお弟子さんたちが日本の総合格闘技の中心となっていきましたからね~
ちなみに某超名門大学柔道部出身の知人なんかは
ああ、あんなの普通すよ~ うちの大学なんかあんなもんじゃないっすからねと普通に笑ってました
そりゃあどこ行ってもあなたなら生き残れますよ!!
どんな会社でもストレスフリーでしょと思わずにいられないです
そうは言いながら、私もこんな環境で練習なんかは絶対嫌ですが
ははは