神供というものがありまして いわゆる鬼神や夜叉といったたぐいなものに祭文唱えたりお米や紙で作った六文銭あげたりして
夜叉や鬼神の類を供養するというもの
その手のものを供養するといううものです
実はこれは結構大事だな~と思いちょくちょくやるのです
何故かって??
密教にしても陰陽道にしても、その世界観の中には夜叉や鬼神もいて
それらを相手にするからなんですね~
良い存在悪い存在??ということは置いといて、相手にせざるを得ない存在ではある
そういうものなのです
私的には神供=鬼神や夜叉への供養というよりも
ある意味のご機嫌取り
常日頃からその手のもののご機嫌を取っておくと、いざという場合は
味方してくれる、もしくは敵には回らないでくれる
そんな感覚なのです どんな存在かと言えば、善悪というよりも強大な力や切れやすい性質を持った方々
そんな感覚なので、敵にも味方にもなりやすい
そんな感覚
仏教なんかでも元は仏敵であっても、お釈迦様なんかに教化されて
護法神的性質になった方々って結構いるじゃないですか
あんな感じで敵にも味方にも転びやすい
いわゆる傭兵的な性質ともいえるかもですな~
さてそんな夜叉や鬼神的なもの
今どきのスピの世界ではあんま語られないというかいないことに~
そんな感覚さえあるかも
龍やらなにやら持ち出す方々も、まるで犬猫のように
龍は我々人間のお友達です~、はたまた愛の世界に導く聖なる
存在です~
そんな素晴らしい聖なる存在しかスピリチュアルにはいません~
(ちなみにスピは全く詳しくないのであくまでも私の勝手な想像)
私なんかはそんな甘っちょろい幻想や理想を聞くたびに、
わははのはと思うんですな~
平安の昔から(てか太古)この国って悪鬼羅刹や夜叉鬼神と対峙してきた長~い歴史があるじゃないですか
術や法というものだって今のように恋愛成就~や庶民の幸せを~というよりも
疫病や飢饉、地震や雨降らね~といった自然災害のようなものに対して
行われることが多いじゃないですか
プラスに転じるよりもマイナスをまずは無くしてくださいてきな
栄華云々を祈れるのはお貴族様のような一部の特権階級だけで
やっぱ日本の霊的なフィールドがそうなっているのですから
平成や令和の時代になったからと言って、愛の存在しかいません~
龍は幸福のシンボルです~とはならんわな~
荒ぶる性質は性質でやはり内包されてると思うのですね
それにそんな立派な龍神や神さまたちであればいろんな眷属を引き連れていて、その中にはやはり鬼神や夜叉の類だって当然いると思うのです
密教の修法なんかでも、仏様という聖なる存在をお招きした際ですら
仏様と一緒に来られる眷属たちの類にも夜叉の類は来るということで
彼らを帰らせる印や真言がありますし
陰陽の世界だって、術を行う際、結界は張りますが
結界を破って何かが入ってくることが前提ですもん
もしくは使う式神が荒れ狂うこと前提で、暴れた時のためにむき身の刃物を床や畳にさして置いたりしますから
その手のものを扱わない、想定していない人々って
今風に言えば電車や街中で暴漢や事故なんかに会うはずがない
そんな感じの危機管理無さすぎじゃないか??と思うのです
仏教や神道の伝統宗教やら何やらって1000年以上の歴史があるじゃないですか
逆に言えばそれだけの期間実験と検証を行い続けてきてるんですよね
新興宗教でいえば江戸の終わりくらいから150年くらい
ま、古い新興宗教でいえば、教義云々に仏教や神道的なものがかなり
入ってると思いますのでそれらを考慮してもいいかもですが
スピや昨今の新興宗教ってまだまだそんな時間たってないかもじゃないっすか(海外のスピまで入れたら知らんけど)
そう考えるとまだ治験の最中と言ってもいいのかもだよな~とは思うのです
伝統宗教なんかは治験も終わって教義というものも完成されそれらを
何百年も~と言う世界
たしかに今のスピって(本気の)心理学やいろんな学門や医学云々も取り入れて凄い高度なんじゃないかと思うのです
ついでに今の時代に生きる人たちの要請なんかにも的確に答えて
その辺りの柔軟性や時代性は間違いなく仏教や神道なんかよりもはるかに勝っていると思うのです
どれだけ伝統宗教側がいやいやいやと声を張り上げても
世間の宗教離れとスピへの回帰というのが現実としてありますから
ただ私なんかはスピなんかもまだまだ実験の段階なのかもな~
教義自体というよりも、霊を祓ったり扱ったりする場合
完全に確立されていない中で行ってるのかもな~とは思ったりもします
ので何十年後、扱われた方や暑かった側もどうなってるかな~と言うのは興味ありますが
たいていは扱ったという思い込みだけのかんじなので
どうもなってはいないのかも ははは
逆に確立してない場合って下手に扱えちゃうよりは