神さまや仏様を意識するとき、自分の内側なのか外側なのか
皆さん悩まれると思うのです
お坊さんなんかに聞くと、多分どっちでも同じですよ~
どっちでもいいんですよ~と言われることも案外あると思うのです
なんだそりゃ??答えになっとらんがな!!
と思いそうですがそのあたりを
神仏様のようなものをどんな存在かと聞かれれば大抵の人は自分よりもバカでかいイメージを持つと思うのです
大いなる存在、中には宇宙そのものって
私なんかは、全体というものでもええのかな~と思ったりなのです
大日様が宇宙そのものでもいいですし
個々の仏様たちというものが月天地日木なんたら~のように
一つ一つの惑星であって、宇宙全体が曼荼羅となってる
そんなイメージでもいいですし(私的にはそんな感覚)
そう考えれば私という存在も宇宙の一部であって、わたしという肉体の殻はしょってっても、その中身って宇宙じゃないっすか
宇宙は無限か有限かは知りませんが、とりあえず無限の如くには広がってそうなので
私の内側もそれくらい拡がってる
肉体の殻というものはありますが、結局内も外もあるよでないよで
それを肉体というもので勝手に区切ってるだけなんじゃないか??
それを称して、内でも外でもどっちでもええんじゃないか??
そうおっしゃる気もします
多分ですが、密教のお坊さんなんかはその感覚を持ってる方は多そう
なぜって簡単なお話で
密教には曼荼羅という世界観があるからなんですね
一つは全体とつながってって~的な
さてその密教というものには加行という基本となる行がありまして
内容はあんま教えちゃあかんと言うものですがこれがなかなか興味深い
というかなるほどな~と言う感じでと~っても体形だってるのです
これは陰陽道なんかにはない体形というもので
教えという机上の論理と行という格闘技でいえば実際のスパーリング
それらが高度に体系化してる
そんなものなのですね
その加行の中に、自分の身体に曼荼羅を施していく、配置するという行がありまして
これがその後にと~っても重要になっていくのですね~
ああ~、基本っちゅうのはきちんとやっとかんとあかんわな~と
後になるとわかる もちっと真剣にやっときゃよかったよ!!と思うあたりがやはり凡人なジミヘンさんなのでしょう
ははは
その後の実戦的な祭文なんかにも、お相手のお体に曼荼羅を施して~
そんなものもあるのですが、やはりその祭文って、ネットかなんかからひっぱてきて読むだけでは中々危機は悪いんだろうな~と思うのです
行として体に曼荼羅を配置するということをやってるやってないかで大きな差が出る
読み方云々といういわゆる表面的な技術的なものなんかは同じようなことはできても結局大きな差になる
そんなような感じで加行というものは大きな土台になるのでしょう
ちなみに陰陽道は体系だった行というものがないのです
ま、あくまで我が家のような民間の陰陽師にはないですな
平安期のお役人さんとしての官僚陰陽師の頃も多分なかったんじゃないかと思うのです
あってもお習字教室的に、その先生についてその先生の教え方で~だったんじゃないかな~
そうなると結局習う人の素質勝負のとこも出てきちゃう
その辺りも陰陽師というものが、突出した人材を生み出し続けれなかった理由なのでしょう
加茂家~晴明さんのとこの土御門家のお家芸になったじゃないっすか
そうするとやはりいわゆる競技人口が少ないわけですから
分母が小さければ三角形の頂点も低くなる そんな感じで土御門家の衰退の要因にもなってたのでしょうね
逆に陰陽道の技術が民間に流失して以来、民間の陰陽道が、独自の発展を魅せるのもなかなか興味深いのですが
ちなみに私の感覚では独自の発展=陰陽道とは呼べない形に発展
そっちの方がイメージは強いかも
その辺りは面白いので続く