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草彅剛の徳川慶喜を

私がコンサルでくちをすっぱくしていうことばに

喧嘩は負けてもいいけど戦は絶対に勝たんといかんよ~

ということがある

 

それと同時に負ける戦は喧嘩におさえろYO!!

 

みなさん喧嘩と戦をごっちゃにしてますがそれはあかんのです

喧嘩は負けても死なないけど戦はすべて失って死んじゃうんですよね~

 

なので戦をするなら絶対に勝てるというとこまで準備をして

望まねばダメなのです

 

逆に言えばその時期が来るまでは決戦なんかに臨んではだめ

もひとつ喧嘩

 

世の中ってここで立たなければ一生後悔する

はたまた負けるとわかってってもここで立ち向かえば自分の価値が上がるということってやはりある

 

いじめなんかも、負けると分かってっても立ち向かうほうが好転する場合もあるし、義理や恐怖でなかなか断れないような

悪の誘いだって同じ

 

ただ大事なのは戦にしちゃだめなのです

あくまでそれは喧嘩というレベルにしておく

 

戦だってこれはどう考えても負け戦

でも回避ができないということはやっぱある

そういう場合は喧嘩に抑える努力が必要なんですね

 

戦いながらも火消しを考える、落としどころを見つける

大ごとにしないということが

 

別に喧嘩なら泣いて謝っていいじゃん

戦で謝る=領土を分譲されたり、誰かの首を差し出せ云々と賠償請求や

何やらになっちゃいますからね~

 

危機回避としてそれは常に考えるのはすごく大事

お吉さんをはじめとするネットの中傷云々の人々も

 

喧嘩レベルでやめとけばいいのですが、結局書けば書くほどやめれなくなりエスカレートの中毒状態になって

喧嘩レベルではなく戦準備をされてしまう

 

そんなパターン多いじゃないっすか 負け戦したら、やはり社会的なペナルティがあるので中々今後の人生大変になっちゃう

 

時と場合によっては仕事も家庭も失う場合だってある

やはり戦準備をさせるのはあんまよろしくない生き方だと思うのです

 

戦準備はさせるのではなくあくまでも自分がする側に回らないと

 

話変わりますが、ネットニュースで何故に徳川慶喜公は戦わなかったのかということがありましたが

 

私の中では理由はただ一つ

朝敵の汚名をかぶることが嫌だったからなんですね~

新政府軍にかなわない、江戸を火の海にしたくない云々ではなく

 

何故って簡単 水戸藩の出身で水戸学というイデオロギーで生きてきた方だからなんです

一言で言えば将軍となってはいけない家の人間だったから

 

それだけなのです

 

水戸黄門で有名な御三家の一つ水戸藩

テレビでは天下の副将軍と言ってますが、当然そんな役職も事実もない

どっちかと言えば御三家で最も家格の低い家なのです

 

徳川幕府作った偉大なる家康公

この方、源頼朝公と並ぶ日本史上最高の危機管理の達人

 

その家康公が未来永劫徳川の世を~と考えた時に

幕府が倒されるとしたらどんな風に?と考えたら二つの可能性を

考えたんですね

 

一つは薩長のような西国の外様大大名たちが連合作って反旗を翻した時

もひとつが仮想敵が天皇というものを担いで錦の御旗を立てて

徳川が朝敵となった時

 

最初の西国~の危機管理として、二つ大きな政策をしたのです

普通に大軍を江戸まで送るならでかい船に軍勢乗せて攻めあがる

 

なので江戸時代って大型船を作ることを禁止してたんです

あくまでも移動は馬に乗って陸路でという

下に~下に~の大名行列のごとし

 

歴史というのは当然スピードが速くなるという方程式がありまして

馬車~汽車~車~飛行機のように

家康公はスピードを遅くすることで江戸に攻め込ませないようにしてたのです

 

それと同時に薩摩や長州が陸路で攻め込む際にルート沿いに

どでかいお城の防御網を作った

姫路城~大阪城~名古屋城~そして箱根の関所みたいに

ついでにルート上に家康に忠実な大名たちを国替えでいれたのですね~

 

熊本に細川さん、広島に浅野さん、姫路に池田さん、大阪は幕府直轄で

名古屋は御三家の徳川さん、小田原には大久保さんといった具合に

 

明治の世になっても西郷さんが落とせなかった熊本城レベルのお城をいくつも落としてようやく江戸に到着~

 

ですが史上最大の江戸城が待ち構えるというどう考えても江戸を落とすのは無理!!そんな感じだったのです

てか江戸どころか熊本や姫路城一つ落とすことも無理!!

 

水戸の慶喜公はまた明日

 

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