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花の慶次でおなじみの道々のものとの交流

さて花の慶次好きには なじみのある 道々のものという言葉がありまして 平安ころから

土地に縛られずに 自分の職能を頼りに 

いろんなとこを旅しながら生活の糧を得る

芸能や職業集団といいますか 木工製品を作る木地師、

人形を操って芸能をする傀儡子

山師や陰陽師なんかもそれらに入ったりで

これが時代が下って 江戸期なんかになって きちんと人民を統制しちゃいますとなると

その統制外の彼らは 結構邪魔というか 被差別な方たちにもなっていったりで

なのですが これが うちのお墓のある滋賀の山奥なんかだと そのあたりの人種が

いい具合にクロスオーバーしてたりなのです 結構あのあたりは不思議なミクスチャー

例えば木地師なんかは 滋賀の永源寺とかあのあたりが発祥だったりで

うちの先祖なんかもやはり交流合ったらしいという話もあったりで

山師なんかはですね 完全に交流が 鉱脈なんかの発見する方たちね

昔の陰陽師って 土木のにんそく請け負ったり土木技術や測量技術なんかも

持ってたりで あとはですね 風水的といいますか そんなのもで 山の見立てなんかも

傀儡子なんかは完全に術として はたまた今でいう催眠術や手品的に一緒に組んでたりと

いろんな山の民的ネットワークが

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そしてそれらって結構渡来系から技術もらってるのです 特にやはりの秦氏というのが

あのあたりのそういうものにかなり影響与えてるらしく はい

さてやまんなかの陰陽師さんがなぜに結構景気良かったか?木地師なんかもですが

その一つに 実は勝手に関銭とってたりの利権集団だったというのも

要は勝手に通行料を徴収してたというね ははは 寺社なんかもやってたけど

うちもね ひい爺さんくらいのころまでは 山の見立てなんかをやってたらしいんだよね~

結構な山師です ははは

ま、そのころまではかなりブイブイ言わせてたらしく それこそそっちの山からこっちの山まであんたんとこのものだったよ~と いまだに言われますから

父に言わせると なんでそこまで財を成したか謎といいますが

関銭でしょ~ ははは とにらんでます

ま、お寺さんに行くと いろんな話が出てきてこれがまた面白く

まだあだ私が知らない先祖のお話し出てきますね~ ははは

さてレポ

今日ブレス到着しました。

ご無理をお願いしてすみませんでした。

 

開封はしましたが、バタバタと落ち着かないためまだ布の袋からは出していません。

先日アップされていた写真に写っていたブレスですね。

ヒスイが大きくて「すごいすごいすごい」と連発してしまいました()

ここ2、3日、くだんの腹痛でアイタタタとなっていたのですが、

開封して覗き込んだ途端、その痛みがひいたのにはびっくりです。

ま、よくなっていくでしょうね~ なんでって?そんな気がするもん ははは

大丈夫でしょ~

 

コメント

  1. 翠榎 より:

    原陰陽道(天文、暦)、原修験道(鉱脈探索)、原呪禁道(呪術)
    元々、これらのものが渾然一体となった原型のようなものが播磨のあたりとその近隣エリアにありました。
    やがてそれらが洗練されていって用途・目的に応じて分化されて行きます。
    仰るように呪術系は渡来系、それも百済からのものです。
    鉱脈探索は、日本在地系のものに加えて、海外からも呼び寄せています。新羅だそうです。高麗人参のありかを突き止める能力者たちを呼び集めて、その能力を鉱山探索に応用させていったものなんだそうです。
    近江は古くは宇治政権(久米系)の置かれていた地。
    久米の和邇・息長系の大王の元、それを補佐する有力氏族たち。宇佐氏や秦氏や東漢氏などです。だからご指摘のように渡来系氏族も多いです。
    また、近江は、韃靼人の割拠する地であった高志(北陸)や、新羅系渡来人の入植した地である丹波(のちに分割された丹後を含む)などからも近く、大和朝廷に制圧されたそれら高志(越)や丹波などの北方系渡来人のその制御役を秦氏や東漢氏が請け負っていたことと思われます。
    三上山ー瀬田の唐橋ー三井寺ラインの伝承なんかはおそらくモロにそれにまつわるものです。
    制圧といっても根絶やしにするわけではないので、時代を下ると仰いますように芸能民になっていった職能集団へと変貌を遂げていったように思います。

  2. ジミヘン より:

    陰陽的に言うと あとはやはり播磨なんですよね~ 法師陰陽のメッカ
    兼あのあたり 土御門の認可受けた陰陽師けっこういたので 
    播磨はいったことないけど一度行こうかと 

    あとはやはり安倍氏の本拠河内 星と渡来系と陰陽道 都を囲んだあのあたり
    怪しいですよね~近江も含め そして福井の名田荘に 土御門本家が移って

    呪術とあのあたりの漂白の民とのかかわり 面白すぎです
    関東とかなり違うのです はい 畿内の薫りなんですよ~

  3. 翠榎 より:

    法師陰陽もなんといいますか、発祥地において長い年月をかけてあのような形に変化を遂げていったその一形態なのだろうなあという気がいたしております。のちに入ってきたものとも習合しながら。
    ちょうど、めんそーれ(御免そうらえ)といったような、古い都の古語がいまでも沖縄や、八丈島などの離島、山奥などに残っていながら、肝心の都ではすでにその言葉はリニューアルされてしまっている、といったようなことと似ている気がします。
    土御門家は福井に移られていたのですね。知りませんでした。越前は、平安京のある山城国と並ぶ秦氏の一大根拠地ですね。そのあたりとどのような繋がりがあるのかが興味深いです。
    一方、土御門家と並ぶ陰陽寮のもう一方の巨頭・勘解由小路家(賀茂氏)ですが、あの御家は分家が何故か奈良の興福寺に入っているんです。
    それで京の勘解由小路本家が絶えたため、興福寺から京に呼び戻され、陰陽寮高官の本家を継ぎました。
    今はそのご子孫は、京都の某所で神社の神官をなさっています。大将軍八神社のような陰陽系の神社です。

  4. ジミヘン より:

    なんと貴重な!!ありがとうございます 越前秦氏の根拠なんですね~ちょっとゾゾっと
    勘解由小路 陰陽系の神社ですか~ 星をつかさどるみたいなとこですかね~

    これもかなりびっくり 土御門は本家はあれですが 若杉と倉橋の分家で~(特に倉橋さん)ですが

    肝心の名田の土御門神社本庁は どうやら藤田さんご高齢で祭り等はやる気がね~で
    資料館かしてますし

    ま、陰陽を継がれてる方たちの高齢化と後継者不足深刻ですな~
    ちなみに 先日法事でお寺さんから また祖母の兄弟のいろんなお話が ははは

    中々できる兄弟ですな~

  5. ジャン・レノ より:

    全く違った意味でゾゾッとしておりまっす。
    越前…秦氏、福井!ダッタン人、播磨…いやー、色々とキーワードにゾクゾクします。楽しくなってきます!

  6. 翠榎 より:

    三大財閥の一つ住友家も越前秦氏の一族です。
    あとは『今昔物語集』で有名な「芋粥」。
    この中に出てくる藤原利仁という中級貴族(「諸大夫」といって各国の受領などに任命される階級。全貴族階級を通してもっとも裕福だったのがこの諸大夫階級です。その中でもとりわけ、この藤原利仁は富裕をもって知られていました)。この人は父方は藤原氏ですので都に籍を置いておりましたが、その領地は越前にあり、母方は二代に渡って秦氏でした。
    利仁公の豪奢ぶりはこの母方の越前秦氏の財力によるものです。

  7. 翠榎 より:

    寛平・延喜の時代(9c末〜10c初頭)に東国で猛威を振るっていた“富豪の輩”、その実態は、郡司の庶流や、任期を終えても都に帰らなかった受領の子息たちといった者たちから成る良家の不良たちです。それに加えて奥羽において大和朝廷に降伏し、関東以南に住まわせられた蝦夷たち。これを「俘囚」といいます。この富豪の輩と俘囚とが、関東で、都へ送る官物(税)を略奪したりと好き勝手な振る舞いをしていました。
    これを「寛平・延喜東国の乱」と言います。
    この乱を鎮めるために都から派遣されたのが、藤原利仁であり、桓武平氏の祖にあたる平高望といった諸大夫貴族たちです。
    この利仁や高望などがこの乱の平定に勲功を立て、兵(つはもの)と称されるようになりました。
    学界用語ではこの兵たちのことを軍事貴族といいます。
    以後、全国で都に対する反乱などが起こった時、この軍事貴族(兵)の子弟たちがその鎮圧に赴く役目を負うようになります。
    ちなみに、平将門は上記・平高望の孫にあたります。将門は朝廷に反乱を起こした人物ですが、同時代に西国で乱を起こした藤原純友とともに、鎮圧する側でなく、反乱を起こす側に回った軍事貴族子弟もおりました。これには朝廷の軍事貴族子弟に対する失策が原因になっております。
    一方、この将門や純友の乱(承平・天慶の乱)の鎮圧に当たった藤原秀郷や、平貞盛(将門の従兄。つまり将門と同じく上記・平高望の孫であり、この貞盛の子孫が平清盛の平家や鎌倉幕府執権北条氏や小田原北条氏などです)や、橘遠保や大蔵春実といった、乱の鎮圧勲功者たち。彼らもみな、寛平・延喜東国の乱の鎮圧勲功者たち(=兵/軍事貴族)の孫から曾孫にあたる世代です。
    橘遠保の子孫が、あの大楠公・楠木正成公ほかの楠木一族であり、
    大蔵春実公の子孫が以前、旧ブログにて書きましたように、九州の名門武家である秋月氏や原田氏になりました。
    大蔵氏は、坂上氏と同族で、阿智使主後衛・東漢氏の一族です。
    大蔵春実は藤原純友討伐軍の一隊を率いていましたが、討伐軍全体の総指揮官である追捕山陽南海両道凶賊使長官の任に就いていたのが、和邇氏の小野好古公です。そして大蔵春公はこの小野好古公の娘を正妻としておりました。
    久米(和邇・息長)朝廷時代からの縁(えにし)は、このように、王朝国家時代になってもなお存続をしておりました。

  8. 浅井康広 より:

    ジミヘンさんこんにちは。
    いつも楽しいブログ、ありがとうございます。

    名古屋市中川区の荒子観音から、200mぐらいのところに、荒子城後の神社があります。
    この神社、今ではすっかり寂れて、手入れもあまりされてない感じですが、前田家の家紋が、社の上部に飾ってあります。
    荒子城は、城と言っても、普通の屋敷に簡単な堀と塀をめぐらしただけの、質素なものです。
    ですから、神社も、小ぶりな神社です。

    この荒子城に、前田利久と、前田慶次が居城していたと思われます。
    織田信長の命により、前田家の相続は、病弱な利久に代わり、前田利家が受け、利久と慶次は荒子城を出ます。
    (信長と利家は衆道、つまり男色の関係にあり、信長が皆の前で発表すると、皆が羨んだと。利家、枕営業も効いたか。)

    利家は、加賀に移った為、荒子城は廃城へ。

    荒子観音は車で行けますが、荒子城は道が細すぎて、軽自動車がやっと。
    ジミヘンさん得意のスクーターが丁度よい感じです。

    今度、名古屋に帰省された際は、チョッピリ、歴史探訪、いかがでしょうか。

  9. 浅井康広 より:

    すみません、補足です。
    この、慶次が幼少期を過ごした、荒子城の近くに、
    慶次のパチンコメーカーでおなじみのニューギンが、直営するパチンコ店「パーラーニューギン」があり、不思議な感じもします。

  10. ジミヘン より:

    いや~ 実はあらこのあたりも土地勘あって 名古屋にいるときはよく行きました!!
    富士権現ですな!!
    おしゃれベスパで 
    まだジャックアンドベティあるんですかね~?
    海水ラーメンと長命うどんが好きです!!高レコも行きましたよ ミスドやミスドの上のインドカレーやなんかも カリーバーやら 結構あのあたりなぜか行ってました ははは
    さすがに今は帰省しても高畑には行かないですが

    だいぶ変わりましたかね?そういえば荒子神社は円空仏ありましたよね~
    御開帳か何かの縁日に 円空仏チックな 歯切れの仏像もらった覚えが

    懐かしいです

  11. yocy より:

    名田の庄の土御門さん、お祭りしておられないのでしょうかねえ?
    星まつり、一度 伺いたかったんですが、福井 遠いですよねぇ。

    四国のイザナギ流も 後継者はどうなんでしょうか。
    当時の太夫さんも、ご健在かどうか、、

  12. ジミヘン より:

    イザナギはですね 中尾さんだっけ?あの方がなくられてから大きな祭りはやってないって聞きますね~ 後継者がいないとかなんとか
    土御門は形式だけの星まつりもやってないとかやってるとか
    まあ本家ではなく分家が実質継いでるような~だったので 
    どうでしょうかね~

    基本それ1本で食べられないものはすたれます 年が過ぎるにしたがって子孫の
    残そうという意識も薄れます ってうちだよ ははは

    それで食べれなかったら わざわざね~ 仕事だって大変だしってなるよね 普通

  13. ジミヘン より:

    なんと越前秦氏!!やばいですね マジカルです
    住友財閥もですか!!

    正直鳥肌ものです!!
    秦氏の財力 技術と呪術ってめっちゃ感じるのです はい
    ちょっと魔術と財力 裏ブログに書きます