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懺悔や滅罪のジャッジは自分ではなく神仏様として

滅罪や懺悔法というものがありますが 多分どの宗教の教義なんかににもあると思うのです

最近思うことがありまして

自分の犯した罪やその他を対象物に対して懺悔じゃないですか

仏様であったりマリア様や神さまであったり、神父様なんかでも

その段階は懺悔でいうとこの入り口、初期段階なんじゃないかと思ったりなのです

その段階の懺悔、良い悪いの判断って自分じゃないですか

自分が現代の慣習や社会状況というもので測った良しあし

実はこれってあやふやなんです 絶対の良しあしではなく社会状況や時代というものとの相対関係によっての善悪

道徳的なものであっても、案外江戸時代に入ってきた儒教的教義に基づいたというものだって多い

例えば戦国時代の一向一揆

阿弥陀様の下で聖戦を戦わないものは死後阿弥陀のもとに行けないという浄土真宗のトップの言葉によって多くの農民たちが一向宗となって戦った

さて彼らの行為は善悪どちら??戦乱の世の中、農民から武士たちまで多くの人間が戦で人を殺した 彼らは??

 

太平洋戦争のさなか、撃墜王と称された方々は??

今の道徳、社会状況でいえば完全によろしくないですよね 行為として大量殺人ですから

では死後苦しんでるか??

それってわかんないじゃないですか 当時の社会状況や慣習としてはそれは正しいことであり、逆に殺さなければ殺されていた

死後それらを悔いてるのか??

太平洋戦争なんかでの撃墜王や中国戦線、南方に行った方々なんかは復員しても罪の意識にさいなまれてたり、サイレンの音を聞くと狂ったように暴れちゃうそんな方もいるじゃないですか

ただそれは後の世が平和となって平和な世界の道徳観では悪いことをしたという罪の意識を持ったからなんですよね

もしくはあまりにもな地獄を見続けたせいでPTSD発症したり

ちなみに西原先生の最初の旦那、戦場カメラマンで極度のアル中で亡くなった鴨志田さんは私のなかではあまりにも地獄を見続けて発症した

繊細で優しくてダメな人だったんじゃないかと思ってます

 

善悪というものも時代や慣習によって大きく変わったりするものもある

ではそのジャッジは?というときに思うのが、懺悔の対象物となる方でいいんじゃないか

仏様であればジャッジだって仏様で

不二というお言葉がありまして 私と仏が別の存在というのはあかんよ

常に仏様と一体じゃないと そんな内容ですが

その世界なんだと思うのです

もっと言えば私の中の仏様に懺悔するから私が仏として懺悔する

私ではなく仏様の善悪のジャッジで懺悔でいいんじゃないっすかね

 

業を犯してしまった相手えの回向というものも。私としてより仏として真言や経文読んだりする方が届くし効果もあるじゃないですか

と思う今日この頃

観音様はジャッジしないと書きましたが その行為はよろしくないよ

懺悔しないとねという行為に対してのじゃっじはしても

そんなあんたを許しませんというジャッジはしないという感じじゃないっすかね

職場なんかでもすぐ怒って切れる上司がこれやったもの名乗り出ろ!!

怒ったり処罰はしないからと言って名乗り出たらブチ切れられた

やっぱり切れるじゃん!!そういう場合ってこれから名乗り出れないですからね

懺悔なんかも同じじゃないっすかね

そこに処罰があるとなかなか懺悔はできない できても表面だけのきれいごとの懺悔で終わっちゃいそう

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