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鎌倉は陰陽道の呪術をつかった街だった

さて東北への3重の呪術の守りの続きです

関と言うのがあるでしょ?

その中でも白河関 ここ凄くあやしい関って門にかんぬきかけて 強力な門にしたって書いたじゃないですか?

なぜに白河 これ私のかってな勘ですが 当時の朝廷はここまではヤマトと言う認識で

ここから東は蝦夷という認識だったんじゃないかと?

 
ここから西は死守って

そして田村マロさん、伝説ではどこかにつぼのいしぶみを埋めたと言うのがありまして
その石は神代に 北方の鬼達が侵略しないように立てた石の札だったと言われてるのです

鬼がそのいしを地中に埋めて 侵略してきたそうで ま、いしに呪術をこめてたが その呪術を
破られたのでしょう

でですね 田村マロは そのいしを掘り起こし多賀城のあたりに埋めてその上に千曳大明神を祀ったと伝承がありまして

そのいしには 日本中央と矢じりで彫られていたと メッチャ気になりません?

なぜに日本中央?なぜに矢じりで?

ま、矢じりは固くて彫りやすそうだから と思うでしょ?普通は あまいですねえ!!

ちなみに日本中央はなぜだかはさっぱり浮かびません

 

東北とともに今はまってるのがお隣鎌倉なのです

お隣の町といっても我が家の場合道向こうが鎌倉なので

ほぼほぼ鎌倉

 

さて鎌倉なのですが実は陰陽師がとても活躍してるのです

頼朝の時代に都から連れてきた

 

実は鎌倉では2度ほど陰陽師に大掛かりな祭祀が行われていて

どうやら鎌倉の四方をまもるという陰陽道のお祭り

 

これがとても興味深い

四角四境祭といわれる祭りで 疫病が流行ったときに鎌倉と言う都市に

疫病が入らないようにというお祭りなのです

鎌倉幕府の歴史書東鏡にも載ってるので

伝説ではなく行われたのでしょう

 

頼朝の時代と4代将軍が疱瘡にかかった時にも

ちなみに鎌倉の将軍は3代でおしまい~と思われがちですが

実は都から摂関家や皇族のお子さんというやんごとなき方々を迎え入れ

将軍職はつづいてたのです お飾りですが

3代までというのは頼朝の血を引いた将軍という意味合いです

本来は

 

さて陰陽道のお祭りということにも興味あるのですが

それ以上に興味があるのは鎌倉時代に鎌倉と言う要塞都市は

どこまで認識されてたのか、

ようは当時の将軍や武士たちがどの範囲までが鎌倉と認識してたのかが

これでわかるのです

 

東西南北という4方位でまつるわけですからそこが鎌倉の境界線

この認識がとても面白いのです

 

サイクリングもかねてその地点に何度も見に行き

地元のアマチュア歴史家のように考察する

4代将軍になった時のお祭りでは頼朝のころより鎌倉の範囲は

広がってるけどなぜここが境界???

絶対呪術的な意味合いもある

 

ちなみにもっと初期のころでいえば私の住んでる腰越あたりは

鎌倉と認識してなかったんですね

今は立派な鎌倉市ですが

 

なぜって義経が頼朝の怒りに触れて有名な腰越状という言い訳を描いた

手紙を頼朝に送るも、頼朝が許さずに義経をとどめておいた場所が

腰越なのです

お前なんぞは鎌倉の地に一歩たりともいれてやらん!!とばかりに

そう考えると腰越は境界線

頼朝時代のその陰陽道のお祭りも腰越で行われてるというね

 

さてネットや書物なんかには載ってませんが

境界線にいってフィールドワークしてる時に浮かんだのが

四角四境祭りの境って文字通りの境界線の境とともに

鏡のきょうじゃないかと浮かぶのです

 

陰陽道って呪術で埋めものよく使ったじゃないっすか

ぜったいに術として鏡埋めて結界としてるよね!!

ちなみに現在でも呪術に鏡使うのです

土地の結界なんか張るときに

 

いわゆる古鏡という古い鏡を砕いてですね

土地のある部分にくだいた鏡を立てて埋めたりするのです

 

なぜに古鏡かといいますと、今の鏡と違って古い鏡って作る過程で水銀使うじゃないっすか

呪術って水銀は重要でして~なのです

 

ちなみに今でも鏡使った結界張ってるとこあるのです

横浜の〇〇という有名な施設なんかは施設の建設時に

この結界張ってたりしております

 

どこかは内緒

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